江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年11月14日祈祷会(エレミヤ13章、麻の帯とぶどう酒のかめの預言)

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1.麻の帯と葡萄酒のかめの預言

 

・前609年、改革を進めてきたヨシヤ王はエジプトとの戦いに戦死し、ヨシヤの子エホヤキムがエジプト王の後ろ盾で即位する。この頃、エレミヤが「亜麻布の帯の預言」をしたと伝えられる。亜麻布、今日でいうリンネルは高価な織物で、富裕な人々は、衣服を縛る帯として用いた。エレミヤはその帯を近在の岩山に隠せと命じられる。

-エレミヤ13:1-4「主は私にこう言われる。「麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない。」

わたしは主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。主の言葉が再び私に臨んだ。「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい。」

・神が腰に巻かれるべき腰帯が腐る、王や官僚、祭司たち指導層の腐敗を示す行為を通して、エレミヤは人々に「神に用いられてその腰帯になるのか、それとも神に棄てられて腐るのか」という選択を迫る。信仰とは神に固着することだ。神から離れた時、たとえどのような賜物が私たちに与えられていても、腐って無用の存在になる。誰も聞かなくとも、私たちは神の言葉を語り続けなければならない。

-ヘブル3:12-14「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。

・次の酒かめの預言も同じような象徴預言であろう。「かめに酒を満たす」、酒飲みにはいくらでも酒が入るという当時の戯れ言であろう。エレミヤがそういうと、人々は「そんなことは知っている」と嘲笑する。エレミヤは反論する「わかっていないから、あなたがたは異民族の侵略という酒に酔うのだ」と。

-エレミヤ13:12-14「あなたは彼らにこの言葉を語りなさい『イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ』と。すると、彼らはあなたに言うだろう『かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか』と。あなたは彼らに言いなさい『見よ、私は、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、エルサレムのすべての住民を酔いで満たす。私は、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。私は惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす』と主は言われる」。

 

2.悔い改めよ、まだ遅くない

 

・エレミヤは人々の嘲笑の中で預言を続ける「聞け、今なら間に合う。まだ救われる望みはある」。闇が襲わぬうちに光の中に出でよと。そうでなければあなたがたは滅びるのだ。

-エレミヤ13:15-17「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ、闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、私の魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、私の目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ」。

・エホヤキムはバビロンのネブカドネザルに反逆し、バビロン軍がエルサレムを包囲する中で死ぬ。その後を継いだエホヤキンに時代に語られた預言であろう。しかし、指導者たちは聞かず、エルサレムは陥落し、王や皇太后はバビロンへの捕囚となる。第一回バビロン捕囚(紀元前589年)である。この時はエレサレムの神殿も王宮も破壊されずに残された。

-エレミヤ13:18-22「王と太后に言え『身を低くして座れ。輝かしい冠はあなたたちの頭から落ちた』。ネゲブの町々は閉じられて開く者はなく、ユダはすべて捕囚となり、ことごとく連れ去られた。目を上げて、北から襲う者を見よ。あなたにゆだねられた群れ、輝かしい羊の群れはどこにいるのか・・・あなたは心に問うであろう『なぜ、このような事が私に起こるのか』。あなたの重い罪のゆえに着物の裾は剥ぎ取られ、辱めを受ける」。

・人は苦難にあうと言う「なぜ、このような事が私に起こるのか」。それは罪の故に生じる。人の罪はいくら洗ってもきれいにならない。エチオピア人の皮膚の色や豹の皮文様が変わらないように、人は罪から清められることはない。人は砕かれなければ悔い改めることはできない。だから裁きが必要だ。人は裁きなしには救われないのだ。「建てるためには、まず砕かれなければいけない」のである。

-エレミヤ13:23「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう」。

・私たちも同じだ。パスカルは言う「多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである」。しかしまだ自分の番は来ないと思う私たちは現在の生を貪る。順番は必ず来ることを教えるのが裁きなのではないか。

 

3.エレミヤ13章の黙想(ルターの聖書日課から)

 

・ルターはこの個所について次のように語る

-エレミヤ書13章23節「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも、正しい者となりえよう。これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心です。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところです。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪です。この罪は時折行われるものではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。

・「人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活したり、原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様にのみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それを通して私たちに助けを提供してくださるのです」。

・神は「私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさった」。律法は私たちが罪のもとにあることを知らしめるために与えられた、そして「律法による絶望を通して私たちは福音(神の恵巳)を知るのである。

-ローマ3:20-22「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。

・だから新しい契約がイスラエルに与えられる「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す……そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである。……私はかれらの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:33-34)

・かつての契約では戒めは石の板に刻まれた。新しい契約では人の心にそれが記される。かつては「主を知れ」といって教えられたが、新しい契約ではその必要はなく、小さい者も大きい者もみな主を知るようになる。そして、何よりも主は民の悪を赦し、その罪を心に留めることをなさらないゆえに、契約が破られることはなくなる。

-第二コリン3:3「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

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