1.エレミヤの告白と嘆き
・紀元前597年、バビロン軍はユダヤに侵攻し、住民は殺され、生き残った者は飢餓に苦しめられた。人々に裁きと滅びを語ってきたエレミヤは民のために神の憐れみを懇願するが、その嘆願を神は拒否される。
-エレミヤ15:1-3「主は私に言われた『たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、私はこの民を顧みない。私の前から彼らを追い出しなさい。彼らがあなたに向かって、どこへ行けばよいのかと問うならば、彼らに答えて言いなさい・・・疫病に定められた者は疫病に、剣に定められた者は剣に、飢えに定められた者は飢えに、捕囚に定められた者は捕囚に。私は彼らを四種のもので罰する・・・剣が殺し、犬が引きずって行き、空の鳥と地の獣が餌食として滅ぼす』」。
・「疫病に定められた者は疫病に、剣に定められた者は剣に、飢えに定められた者は飢えに、捕囚に定められた者は捕囚に」、厳しい言葉だ。神は「憐れみに飽きた」とまで言われる。民は「なぜ飢餓から救済して下さらないのか」、「なぜ剣から守って下さらないのか」と神を非難する。しかし神は言われる「民が真に悔い改めるためには裁きが必要だ。止めてはならない」と。
-エレミヤ15:5-6「エルサレムよ、誰がお前を憐れみ、誰がお前のために嘆くであろうか。誰が安否を問おうとして、立ち寄るであろうか。お前は私を捨て、背いて行った・・・私は手を伸ばしてお前を滅ぼす。お前を憐れむことに疲れた」。
・男たちは殺され、妻たちはやもめとなる。息子たちも殺され、母親は嘆く。しかしまだ終わりではない。生き残った者も敵の剣に渡されると主は宣告される。徹底的な滅びの宣告がなされる。太平洋戦争末期の日本のようだ。出征兵士は死に、国内に残った人たちもアメリカ軍の空爆で殺されていった。
-エレミヤ15:8-9「やもめの数は海の砂よりも多くなった。私は白昼、荒らす者に若者の母を襲わせた。彼女はたちまち恐れとおののきに捕らえられ、七人の子の母は崩れ折れてあえぐ。太陽は日盛りに沈み、彼女はうろたえ、絶望する。私は敵の前で民の残りの者を剣に渡すと主は言われる」。
・エレミヤはこれまで民に「悔い改め」を求めてきた。しかし民はエレミヤの言葉を聞かないばかりか、逆にエレミヤを「災いを預言する者」として排斥してきた。預言通りの裁きが来れば、今度は「自分たちを呪ったからこうなった」と民はエレミヤを恨む。エレミヤはどうして良いのかわからなくなり、嘆く。
-エレミヤ15:10-11「ああ、私は災いだ。わが母よ、どうして私を産んだのか。国中で私は争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。私はだれの債権者になったこともだれの債務者になったこともないのに、だれもが私を呪う。主よ、私は敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲う時、あなたに執り成しをしたではありませんか」。
2.預言者として再び召される
・エレミヤの嘆きは続く。預言者は人の罪を指摘し、悔い改めを求めるゆえに、必然的にその言葉は裁きとなり、民は聞きたくないゆえに離反する。聴衆のいない預言者、会衆のいない説教者ほど、空しいものはない。エレミヤは「何とかして下さい」と神に訴える。
-エレミヤ15:15-16「主よ、私を思い起こし、私を顧み、私を迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて、私が取り去られるようなことがないようにしてください。私があなたのゆえに、辱めに耐えているのを知ってください。あなたの御言葉が見いだされた時、私はそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって、呼ばれている者です」。
・民に捨てられたエレミヤは神に頼る。しかし神はエレミヤから苦痛を取り除こうとはされない。エレミヤは神を告発する「あなたは私を裏切り、あてにならない流れのようになられた」。
-エレミヤ15:17-18「私は笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたは私を憤りで満たされました。なぜ、私の痛みはやむことなく、私の傷は重くて、いえないのですか。あなたは私を裏切り、当てにならない流れのようになられました」。
-イザヤ49:4-5「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たしたと。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ私の力」。
・エレミヤに絶望の中で語られる神の声が聞こえてきた「いつまで弱音を言うのか。あなたは私の口ではないか。もう一度立って、私の言葉を語れ」と。
-エレミヤ15:19「あなたが帰ろうとするなら、私のもとに帰らせ、私の前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを、私の口とする」
・「民が聞かないからと言って彼らに歩み寄るな、民があなたの言葉を聞くようになるまで語り続けよ」と主は言われる。
-エレミヤ15:20-21「この民に対して、私はあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが勝つことはできない。私があなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。私はあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ」。
3.エレミヤの滅亡預言
・エレミヤは人々に悔い改めを迫る。イスラエルの人々は空しいものを追い、神を嘆かせるほどの不信仰になっていた「ヤコブの家よ。イスラエルのすべての部族よ、主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖は私にどんな落ち度があったので、遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い。空しいものとなってしまった」(2:4-5)。イスラエルの人々は偶像礼拝で神をないがしろにしていた。そのために、災いの預言は30年にわたって語り続けられた。神は人々の回心を求めて30年間も災いの実現を遅らせられた。しかし、それはエレミヤにとっては、預言が成就しないことを意味し、エレミヤはうそつき、偽預言者と罵られる。エレミヤは苦闘する「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」(12:1)。
・ヨシヤ王の宗教改革に賛成したエレミヤはエルサレムへの礼拝集中に賛成し、地方聖所を持つ郷里アナトトの利益を害したとして命を狙われる。エレミヤは故郷の人々への報復を主に願う。良かれと思って行為したのに故郷の人々は何故理解しないのか、そもそもこの世では「悪が栄え、善人が虐げられている」現実がある。「この世に悪が存在するにもかかわらず、神は正しく正義である」と言いうるのか、エレミヤの深い悩みがここにある。
・エレミヤは30年間も預言活動をしたが、人々は悔い改めず、北からの災いが現実となる。紀元前597年、バビロニア帝国が南ユダ王国を占領し、王と重臣たちが捕囚としてバビロニアに連れ去られた。第一次バビロン捕囚である。ただこの時は、ダビデ王家はゼデキヤ王に継承され、神殿も無事だった。王がいて神殿があるかぎり、国威と神の守護を期待することが可能だったので、人々は真剣に悔い改めようとはしなかった。そして彼らはバビロニアに反逆し、紀元前587年に、バビロニア軍が攻め込んできて、エルサレムは徹底的に破壊され、ユダ王国は滅ぼされた(第二次捕囚)。滅ぼされないと人は悔い改めないのだ。「建て、植えるために」は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」することが必要なのだ。それはつらい過程ではあるが、必要なのだ。
-エレミヤ1:9-10「主は手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に言われた。『見よ、私はあなたの口に、私の言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために』」。
・エレミヤは30年間預言してきた。それは一貫して、「神の怒り、神の裁き」の預言だった。その裁きの預言がユダ王国滅亡後は、「赦しと回復の預言」に変わっていく。その大転換がなされたのは何故か。聖書学者北森嘉蔵はエレミヤ書31:20を見よと示唆する。「エフライムは私のかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、私は更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、私は彼を憐れまずにはいられないと主は言われる」(31:20)。「彼のゆえに、胸は高鳴り」、ルター訳は「彼のゆえに私の心臓は破れる」となっている。神はエフライム、イスラエルの民が殺され、捕囚となってバビロニアの地に連れ行かれ、あるいは奴隷として売られていく様を見て、「心臓が張り裂けるばかりの憐れみを感じられた。そこに怒りを克服する愛、神の痛みがあった」と北森嘉蔵は受け止める(北森嘉蔵、エレミヤ書講話)。
・「神の痛みが無条件の赦しをもたらした」、これがエレミヤ書の示す真理である。ここに示される神の愛、「無条件の赦し」こそが、死んだ者を生き返らせる愛だ。神の愛によってイスラエルはエレミヤの預言を読み直し、捕囚時代を耐え忍び、帰国後、国を再建することが出来た。エレミヤの努力は報われたのである。
-エレミヤ31:15-17「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。