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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年8月22日祈祷会(エレミヤ書1章、エレミヤの召命と派遣)

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1.エレミヤの召命

 

・エレミヤの召命はヨシヤ王の13年(前626年)である。当時、北イスラエルは既に滅び、南ユダもアッシリアの支配下にあった。しかし、アッシリアは次第に勢力を失くし、胎頭してきたバビロンと南の大国エジプトとの覇権争いの中に新しい秩序が始まる、世界史の転換期であった。エレミヤはその中にあって、「神の裁きがユダに与えられる」と預言し、実際に国の滅亡を見る。愛する祖国を救うために立たされ、最終的には祖国滅亡を見た悲哀の預言者だ。

-エレミヤ1:1-3「エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた」。

・預言者は前8世紀と前6世紀に集中的に現れる。前8世紀は北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時(前721年)であり、前6世紀は南ユダ王国がバビロンに滅ぼされた時(前587年)だ。国が滅びる時は国が病巣を抱えている時であり、その病巣を告発するために預言者が立つ。しかし預言者は指導者や民から嫌われ、排斥される。イエスご自身も預言者は迫害されると言われた。エレミヤの生涯も迫害の生涯だった。

-マタイ5:11-12「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。

・エレミヤは召命された時、「自分はそれにふさわしくない」と断った。まだ20代の若者だったからである。

-エレミヤ1:4-6「主の言葉が私に臨んだ『私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』。私は言った『ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから』」。

・しかし主はエレミヤに職責を与える。モーセも召命の時に「自分は口が重い」と最初は断っている(出エジプト記4:10)。パウロも弁が立つほうではなかった(第二コリ10:10)。主の選びは人の基準とは異なる。

-エレミヤ1:7-8「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」。

・主はエレミヤを預言者に任ぜられる。それは、「諸国を壊し、建て、抜き、植える」ためである。再建に先立ってユダは壊されなければならない。エレミヤは自国の滅亡を預言するように命じられる。

-エレミヤ1:9-10「見よ、私はあなたの口に、私の言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」

 

2.エレミヤに与えられた幻と委託

 

・「亡国の預言者になれ」との主の命にエレミヤは苦闘する。そのエレミヤに主は二つの幻を見させる。最初の幻はアーモンドの幻であった。アーモンド=目覚めの木と言われ、春一番に花が咲く。そのように「私も目覚めて国の行く末を見守る」と主は言われた。

-エレミヤ1:11-12「主の言葉が私に臨んだ『エレミヤよ、何が見えるか』。私は答えた『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます』。主は私に言われた『あなたの見るとおりだ。私は、私の言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)』」。

・二番目は煮えたぎる鍋が北からこちらへ傾く幻であった。不信のユダを裁くための北からの軍勢が押し寄せてくる。それは主の招きによる外国の軍勢であった。この幻はやがてバビロン軍によるエルサレム制圧として実現する。

-エレミヤ1:13-14「主の言葉が再び私に臨んで言われた『何が見えるか』。私は答えた『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています』。主は私に言われた『北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。北のすべての民とすべての国に、私は今、呼びかける』と主は言われる」。

・ユダの犯した罪は偶像礼拝だった。アッシリア支配下で人々は異教の神を拝み、聖所では淫行が行われ、幼児犠牲が捧げられた。偶像崇拝とは人の造った像を拝むことで、それは自分を神とする。全ての罪はそこから生まれる。現世利益を求める宗教は神を自己の欲望充足の手段とすることであり、偶像礼拝に他ならない。

-エレミヤ1:16「私は、わが民の甚だしい悪に対して、裁きを告げる。彼らは私を捨て、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した」。

・エレミヤは指導者や民から迫害されるが、私が守ると主は言われて、エレミヤは預言者として立たされた。

-エレミヤ1:19「彼らはあなたに戦いを挑むが勝つことはできない。私があなたと共にいて救い出すと主は言われた」。

 

3.エレミヤ書の時代背景(History of Israel Ch.8バビロン捕囚時代)

 

・紀元前598年の第一回捕囚ではエホヤキン王をはじめ3023人の者がバビロニアに連れて行かれた、とエレミヤ書52章28節には記されている。その中には、上級官吏や貴族、専門技術者(特に要塞建築家)、また預言者エゼキエルも含まれていた。エゼキエルは捕囚の第五年に、捕囚の地で預言者としての召命を受け、捕囚の民に預言活動をした。ユダ本国においては、ネブカデネザルが、ヨシヤの末息子でエホヤキの叔父にあたるマッタニヤを王に任命し、これをゼデキヤと改名させた。この改名も、かつてエジプトのパロ・ネコがエホヤキムにしたのと同様に、バビロニアのユダに対する支配権をあらわしている。

・ユダ最後の王ゼデキヤの治世の時代は、バビロニアに服従するか、あるいはエジプトに頼ってバビロニアに反抗するか、という問題に終始した。預言者エレミヤは、ネブカデネザルの介入をヤハウエの裁きの行為と解し、ネブカデネザルに服従することを主張した。エレミヤ書27章には、ゼデキヤの第四年にエドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンからエルサレムに使者がやってきたことが記されているが、その目的はバビロニアに反逆する相談であった。エレミヤは、首に軛をかけてこれに反対した。これに対してバビロニアへの反逆を主張したハナニヤは、エレミヤの首から軛を取って砕いた。そこでエレミヤは立ち去って行った(28章)。

・エルサレムの宮廷内には、親バビロニア派と反バビロニア派との抗争が絶えなかった。さらにエジプトは背後で救助を約束して、扇動していた。エルサレムでこれらの抗争が行われていた時、エゼキエルが捕囚の地で預言者としての召命を受けた(前593年)。その内部抗争の結果、ゼデキヤはエレミヤの反対にもかかわらず、ネブカデネザルに反抗することに決め、朝貢を中止し、臣属関係を破棄した。これに対してネブカデネザルは、ゼデキヤの第九年(前590年)ついにエルサレムを包囲した。堅固なエルサレムが陥落するまでには一年半もかかった。救助を約束したエジプトは軍隊をエルサレムに送って一時バビロニア軍の包囲を解かせたが、エジプト軍は助けるだけの力をもっていなかった。エゼキエルは諸外国預言の中で、エジプトがいかに頼りにならないかということを語っているが(29-32章)、この時のことを述べているのであろう。

・エルサレムは兵糧攻めにあい、ゼデキヤの第11年(前586年)、城壁に突破口があけられて、バビロニア軍に侵入された。その時ゼデキヤは、エルサレムを脱出して東ヨルダンに向かって逃げたが、その途中のエリコでバビロニア軍に捕らえられ、ネブカデネザルの本営の置かれていたシリアのリブラに護送された。ネブカデネザルはゼデキヤの目の前で彼の息子たちを殺し、ゼデキヤの両眼をえぐって、鎖につないでバビロンに送った。エルサレム征服の一カ月後、ネブカデネザルの命令によって、神殿とエルサレムの町に火がつけられて、エルサレムは壊滅した。神殿の炎上と共に、恐らくその中に納められていた古い十二部族連合の聖物であった「契約の箱」も焼失したであろう。そして、またもや上層階級が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた(第二回捕囚)。エレミヤ書52章29節によると、この時捕らえ移されたのは832人であった。

・ネブカデネザルは、ユダの国家としての独立を最終的に奪い、これを属州としてバビロニア帝国に編入した。しかし彼は、かつてアッシリアがしたようには、外国の上層階級をユダに移すということをしなかった。そのためにユダは国家としては滅亡したが、そこに住む者はユダヤ人としてのアイデンティティを保つことが出来、捕囚後はユダヤ教団として存続していくことになる。ネブカデネザルはゲダリヤを行政官として任命した。ゲダリヤは、エルサレムが破壊されてしまったので居をミズパに移した。しかしイシマエルを指導者としたバビロニアに反感をもっていた者たちが、ゲダリヤを暗殺した。そして彼らはネブカデネザルの報復を恐れてエジプトに逃げる。その時エレミヤも一緒に連れて行った(エレミヤ書40・7以下)。

・エルサレムの陥落は、イスラエルの人々にとっては決定的な出来事であった。四百年続いたダビデの王国が終焉しただけでなく、不滅だと信じられていた神の都は破壊され、神の住まいと信じられていた神殿も破壊された。この事実に直面して、ユダの人々は(捕囚にいた人々も、ユダに残された人々も)、全くの絶望状況に陥った。預言者たちは、神に対する不服従のゆえにやがてこういう形で神の罰が下されると威嚇してきたが、この預言は成就した。この出来事を目の当りに見た申命記的歴史家は、こういう結果に至らせたのはイスラエルの人々絶えず神に逆らってきたからである、という視点からイスラエルの歴史を叙述した(ヨシュア記から列王記までのいわゆる「申命記的歴史書」)。そしてエゼキエルも同じ視点でイスラエルの歴史を回顧している(16、20、23章)。申命記的歴史は、最後に捕囚となっていたエホヤキンが牢獄から釈放され、バビロニアの王の厚遇を受けるという記事で終わっており、将来に希望を残している。

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