江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年7月11日祈祷会(申命記29章、契約の再締結)

投稿日:

 

 

1.契約の再締結

 

・申命記は約束の地を前にしたモーセの言葉を編集したものであるが、その編集は数百年にわたって為されている。申命記28:69ではこの契約は約束の地モアブで結ばれたものであり、ホレブ(シナイ)での契約とは異なると言われている。

-申命記28:69「これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、モアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である」。

・29章9節から、契約の再締結について述べられている。

-申命記29:9-12「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。それは、あなたがあなたの神、主の契約に入り、あなたの神、主が今日あなたと結ばれる呪いの誓いを交わすためであり、今日、主があなたを立てて御自分の民とし、自らあなたの神となられるためである。主がかつてあなたに告げ、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた通りである」。

・その契約は出エジプトの民だけではなく、国を滅ぼされ、バビロンに流された人たちとも結ばれると申命記は語る。

-申命記29:13-14「私はあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」。

・バビロンに捕囚となった民は、約束の地での国の建設、王国の繁栄と分裂、北イスラエルの滅亡、南ユダの滅亡を見てきた。29:21以下は国の滅亡・異国への捕囚を前提にしている。

-申命記29:21-23「後の世代、あなたたちの後に来る子孫も遠くの地から来る外国人も、主がこの国に下された災害と病を見て言うであろう。また、全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は蒔かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムの惨状と同じなので、国々の民はこぞって言うであろう『なぜ主は、この国にこのようなことをなさったのか。どうしてこのように激しく怒りを燃やされたのか』」。

・国の滅亡とバビロンへの捕囚は、自分たちが契約を守ることができなかった故だと捕囚の民は理解した。それ以降、ユダの民は律法を守ることを自分たちの使命とした。

-申命記29:24-27「彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出されたとき結ばれた契約を、彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したからである。主の怒りはそれゆえ、この国に向かって燃え、この書に記されている呪いがことごとく臨んだのである。主は激しい怒りと大いなる憤りをもって彼らを大地から抜き取り、他国に投げ捨てられ今日のようにされた」。

 

2.祝福と呪い

 

・モアブ契約はヒッタイトやアッシリアの宗主契約の形を取る。強国の王が弱国の王と結ぶ臣従契約である。そこにおいて最大の罪は従事者の反逆だ。神に対する反逆、私たちはそれを犯したのだという叫びがここにある。

-申命記29:15-19「我々がエジプトの国に留まっていたことも、国々の間を通って来たことも、あなたたちは、自ら通って来たので、よく知っている。あなたたちは、彼らが木や石、銀や金で造られた憎むべき偶像を持っているのを見て来た。今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない・・・主はその者を決して赦そうとはされない。そのときこそ、主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されている呪いの誓いがすべてその者にのしかかり、主はその名を天の下から消し去られる」。

・我々は背いた。だから、国の滅亡を見た。しかし神は赦してくださる、そして私たちを滅ぼし尽くすことは為されない。そのような信仰が申命記29-30章の中にある。

-申命記30:1-3「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」。

 

3.絶望からの回復

 

・人々は捕囚地バビロンで絶望の中で主の名を呼んだ。神は私たちを捨てられたのではない。私たちが悔い改めれば、再び救って下さる。続く申命記30章は捕囚地からの救済の叫びだ。

-申命記30:1-4「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」。

・律法による救いが破れたその時、主は新しい契約を結んで下さると彼らは預言者の声に耳を傾けた。

-エレミヤ31:31-34「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる・・・私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。

・新約の民は、この契約の新しい締結者としてキリストが来られたと理解した。キリストが呪いとして血を流されたことによって新しい契約が結ばれたと理解した。

-ガラテヤ3:13-14「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」。

・哀歌はエルサレム滅亡時の絶望を描いた詩だ。しかし、信仰者は絶対に行き詰らない。行き詰まりの底で神を仰ぎ見るからだ。「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」と哀歌は語る。

-哀歌3:28-33「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。

・それはエレミヤの信仰と同じだ。信仰者は底の底で神に叫ぶことが赦されている。だから改めて言う「主の戒めを守れ、主の戒めを心の板に書け」。

-申命記29:28「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである」。

・この戒めの言葉は私たちにも語られている。私たちも「聞け、従え」と求められている。しかし紙の律法ではなく、心に刻まれた律法を聞けと言われる。

-第二コリント3:3「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.