江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月27日祈祷会(申命記27章、契約の更新)

投稿日:

 

 

1.約束の地での契約更新

 

・エジプトから解放されたイスラエルの民は、シナイ山に導かれ、そこで神との契約を結んだ。民を約束の地に導かれた神に感謝し、神の民として今後は従って行くという契約である。

-出エジプト記24:5-8「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが『私たちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」。

・それから40年、民は約束の地を前にしたモアブの地にいる。目の前のヨルダン川を渡れば、そこは約束の地だ。ヨルダン川を渡ったら、そのシケムの地で契約を更新せよと今改めて民に命じられる。

-申命記27:2-3「ヨルダン川を渡り、あなたの神、主が与えられる土地に入る日には、大きな石を幾つか立て、漆喰を塗り、あなたが川を渡ったとき、その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。こうしてあなたは・・・主が約束されたとおり、あなたの神、主が与えられる乳と蜜の流れる土地に入ることができる」。

・民はヨシュアに率いられて川を渡り、約束の地に入り、命じられた通りその地で契約の更新を行った。

-ヨシュア記8:30-31「ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。この祭壇は、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記されたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた。彼らはその上で、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた」。

・救いは契約であり、契約は血によって署名される。新約著者はキリストの血により契約が更新されたと理解した。

-ルカ22:19-20「イエスは・・・食事を終えてから、杯も同じようにして言われた『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」。

 

2.契約更新としての礼拝

 

・イスラエルは神の民となった。だから主の声に聞き従えと命じられる。

-申命記27:9-10「イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。あなたの神、主の御声に聞き従い、今日私が命じる戒めと掟を行わねばならない」。

・イスラエルはまだ服従を実証していないのに神は契約を結ばれる。私たちが服従するから契約=救いが与えられるのではなく、契約=救いが与えられたから服従する。救いは恵みなのだ。

-ヨハネ15:16「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」。

・契約の宣言を受けて民の前に祝福と呪いが置かれる。どのような選択をするのか、戒めを守るのか破るのか。祝福を受けるのか、呪いとなるのか、それは民の選択だ。

-申命記27:12-13「あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山に立ちなさい」。

・改めて民は戒めを守る事を誓う。それがシケム十戒といわれる戒めだ。

-申命記27:15-26「『職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる』。それに答えて、民は皆『アーメン』と言わねばならない。『父母を軽んずる者は、呪われる』。民は皆『アーメン』と言わねばならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者は呪われる』。民は皆『アーメン』と言わねばならない」。

・民は戒めを守ると誓った。しかし、人の罪はそれを守らせない。パウロはそれに気づいた。

-ローマ7:14-24「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれが私を救ってくれるでしょうか」。

 

3.形骸化した律法からの解放としての福音

 

・申命記は安息日規定を定める「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。安息日は元来農耕生活における休息日として設けられた。農耕は過酷な労働であり、休まないと体力を回復できない。だから6日間働いて7日目には休みなさいという祝福が与えられた。それが安息日だった。しかし、人間の罪はこの恵みの規定をも人を束縛する戒めに変えてしまった。

・バビロン捕囚時代に書かれた出エジプト記では安息日を次のように規定する「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:8-10)。当初の規定である申命記では「安息日には休むことができる」となっていたが、後に制定された出エジプト記では「いかなる仕事もしてはならない」と意味が変わり始めてくる。これはバビロン捕囚を契機に律法が厳格化されたためだと言われている。人々は国を滅ぼされ、遠い異国の地に捕囚とされた。彼らは民族のアイデンティティを保つために、ユダヤ人であれば割礼を受け、安息日を厳格に守ることを求めた。さらに後代になると、「安息日を犯す者は殺されなければならない」(出エジプト記31:15)という禁止規定に変わっていく。律法学者はこれを受けて、安息日には仕事を一切してはいけない、麦の穂を摘むことも刈入れに当たるから禁止されていると考えた。

・イエスの時代、律法学者たちはこの安息日の戒めを厳格に守るべきだとして、細かい規則を作る。例えば,火をおこすこと,薪を集めること,食事を用意することさえも禁じられるようになる。ここにいたって安息日が安息の時ではなく、人を束縛するものになっていった。イエスは恵みとして与えられた安息日を束縛と苦痛の日にしている、ファリサイ人や律法学者の偽善を追求され、言われた「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、律法を命よりも大事と考えるファリサイ人や律法学者には、これは律法を軽視した、とても許すことの出来ない言葉と聞こえた。

・イエスは安息日に多くの癒しを行われた。ある意味で、「あえて安息日に癒しを行われた」と思えるほどだ。イエスはその行為を通して、「安息日の意味をもう一度考え直せ」、「安息日を再び祝福の日に戻せ」と言われている。マルコ3章にはイエスが安息日に会堂で片手のなえた人を癒された時に、それを安息日故に批判する人々に言われた言葉が記されている。

-マルコ3:4「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか殺すことか」。

・ルカ13章では、十八年間も腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった婦人の癒しの記事がある。イエスは婦人を憐れに思われ、癒されたが、その日は安息日だったので、会堂長はイエスをとがめた「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(ルカ13:14)。イエスはこの会堂長に激しく反論された

-ルカ13:15-16「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。

・「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。私たちにとっての安息日、すなわち主の日をどのように迎えるのかが問題だ。カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題のもとに記し、さらに安息日を巡る問題を扱う章を「祝いと自由と喜びの日」として書き始める。このことは安息日の戒めが本来私たちにとって自由を与える特別な日としての性格を持つことを示している。

-カール・バルト「日曜日を『礼拝を守らなければいけない日』と考えた時、それは私たちを縛る日になる。そうではなく、日曜日を『礼拝に参加することが出来る日』に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるか。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』。この言葉はイエスが命をかけて戦い取られた福音である」。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.