江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年5月30日祈祷会(申命記23章、隣人との諸規定)

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1.聖浄を保て

 

・睾丸をつぶした者、陰茎を切断した者、混血の者、異邦人は主の会衆に加わることは出来ないとされる。

-申命記23:2-4「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない・・・アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない」。

・「睾丸がつぶれ陰茎を切断する」とは去勢された男を意味する。古代においては、王宮に仕える役人は宦官になることを求められたが、そのような者は排除されると規定された。何故ならば、「全きものしか捧げるな」と命じられているからだ。

-レビ記22:21「和解の献げ物を主にささげ、満願の献げ物、あるいは随意の献げ物として誓いを果たす場合には、神に受け入れられるよう傷のない牛または羊を取る。どのような傷があってもいけない」。

・このため、宦官はユダヤ教に回心しても信徒には受け入れられなかった。エチオピア高官の回心を記す使徒行伝8章の記事は、ユダヤ教の規定に失望した男性がフィリポの言葉によって救われたことを示す。

-使徒行伝8:34-37「宦官はフィリポに言った『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか・・・』。フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた・・・宦官は言った『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』」。

・異邦人と交わることをユダヤ人は嫌い、混血の子、異邦人の血を引く子は排除した。しかし、キリストの系図はイエスの血の中にモアブ人ルツの血があることを示す。教会は混血の子であるイエスを主と崇めた。

-マタイ1:1-6「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図・・・ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」。

・マタイは赤裸々な人間の真実を隠すことなく伝える。イエスの系図の中に異邦人の祖先(ラハブ、ルツ、バテシバ)が含まれ、娼婦(ラハブ)が含まれ、不倫の女性(バテシバ)が含まれている。マタイは世人が恥とし、名誉を失うような所業であっても、イエス・キリストによって、罪が浄められ、聖別されることを、キリストの系図に4人の罪ある女性たちの名を加えることにより、証ししている。

・戦いに出る時はその陣営を聖浄に保てと命じられる。神が共におられるからだ。

-申命記23:10-15「あなたが敵に向かって陣を張るならば、注意して、すべての汚れから身を守らねばならない・・・あなたの神、主はあなたを救い、敵をあなたに渡すために、陣営の中を歩まれる。陣営は聖なるものである。主があなたの中に何か恥ずべきものを御覧になって、あなたから離れ去ることのないようにしなさい」。

・私たちも神の住まれる宮として自分の体を汚すことを戒められている。

-第一コリント6:15-18「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。・・・娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか・・・みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。

・聖所での売淫も禁じられる。異教の神殿には、神殿娼婦また神殿男娼がいた。当時の祝福とは子に恵まれることであり、礼拝儀式の中に性の入り込む余地があった。日本の道祖神やインドのヒンズー教においては、性器を神として拝む。

-申命記23:18「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない」。

 

2.隣人との関係の諸規定

 

・隣人に対して利子を取ることが禁じられる。

-申命記23:20「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない」。

・畑のぶどうや麦の収穫に対して、所有者および隣人の双方に「落穂や摘み残しを残すように命じられる。

-申命記23:25-26「隣人のぶどう畑に入る時は、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」。

・「逃亡奴隷を元の主人に引き渡すな」と書かれている。寄留者を愛せ、これも隣人愛の一つである。

-申命記23:16-17「主人の元を逃れてあなたのもとに来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたの間に、あなたのどこかの町の彼が選ぶ場所に、望むがままに、あなたと共に住まわせなさい。彼を虐げてはならない」。

・律法は突き詰めると「隣人を愛せよ」になる。見える隣人を通して見えない主を愛する。隣人を愛することこそ、まことの礼拝であると旧約も新約も言う。

-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。

 

3.赦しが奇跡をもたらす(逃亡奴隷オネシモの赦しから生まれた奇跡)

 

・フィレモン書はパウロが逃亡奴隷オネシモのとりなしをコロサイ教会フィレモンに書いた手紙だ。オネシモはフィレモン家の奴隷だったが、自由を求めて逃亡し、アジア州の州都であるエフェソに逃げて来た。そのエフェソでオネシモは主人が尊敬している使徒パウロがエフェソの牢獄に監禁されていることを聞き、パウロの許に今後の身の振り方について相談に訪れた。エフェソの牢獄でオネシモは何度もパウロに会い、その話を聞くうちに、パウロから洗礼を受け、今は獄舎にいるパウロの世話係として仕えるようになった。

・パウロは使徒としてコロサイ教会と関わって来た。コロサイ教会の代表者フィレモンもパウロを使徒として尊敬していた。そのパウロが頭を下げて、オネシモをフィレモンに執り成す。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」(フィレモン1:11-14)。

・オネシモはフィレモンの許から逃亡した奴隷であり、フィレモンから見れば彼を裏切った人間だ。そのオネシモを受け入れてほしいと使徒が頭を下げている。パウロはオネシモを「私の心」と呼ぶ。「オネシモはあなたに代わって私に仕えてくれる大事な人になっており、出来れば今後も私の仕事を手伝ってほしい」とパウロは願っている。しかし、「逃亡奴隷は持ち主のもとに返さねばならないため、今オネシモをあなたの所に送る」とパウロは書く。

・オネシモはフィレモンの所から逃げ出したが、それは「あなたの代わりに私に仕えるために、神がオネシモをそのように用いて下さったのだと思う。だから今はオネシモを奴隷以上のものとして、信仰の兄弟として、受け入れて欲しい」とパウロは書く。オネシモは逃亡した時に主人のお金を持ち出していたため、彼は賠償金を払う必要があった。そのお金は「自分が代わって支払おう」とパウロは語る(1:18-19)。パウロはオネシモに一通の書簡を持たせて、主人フィレモンの許に送り返す。フィレモンがオネシモを赦して迎え入れてくれるかどうか、わからなかった。しかしパウロはフィレモンの信仰にかける「あなたが聞き入れてくれると信じています」と。

・その後に書かれたコロサイ人への手紙には、オネシモがパウロの使者としてコロサイに行くということが書かれており(コロサイ4:9)、おそらくオネシモはフィレモンにより奴隷から解放され、その後、エフェソのパウロの下で働いていた。紀元110年頃に書かれたイグナティウス「エフェソ教会への手紙」の中で、「エフェソの監督オネシモ」という名前が登場する。聖書学者は推測する「パウロの死後、その活動拠点であったエフェソ教会を中心にパウロ書簡の収集がなされ、その中心になったのが、エフェソの監督オネシモであったと思われる」と。

・オネシモは主人の許を逃げ出した逃亡奴隷だったが、彼はパウロに出会って変えられ、パウロの執り成しで元の主人フィレモンと和解し、その後、パウロに仕える者になった。パウロの死後はエフェソ教会の監督になり、パウロ書簡の収集活動を行い、パウロの手紙が聖書正典として残された。そして彼は、「自分がどのように赦されて福音に生きる者になったのか」を証しする手紙を、パウロ書簡に編入した。今はエフェソの監督として尊敬される身になったオネシモが、かつては逃亡奴隷であったことを明らかにするもので、人間的に見れば公表したくないものであろう。しかしオネシモは書簡を公表し、神が一人の奴隷にどのように大きな恵みを与えて下さったかを証した。ここに福音の奇跡がある。

・小アジア地方の教会指導者であったパウロが、一人の奴隷のためにコロサイ教会の管理人フィレモンに頭を下げて懇願し、フィレモンはそのパウロの姿勢に感動して、一人の奴隷を自由にした。そのことによって、パウロ書簡が後世の人々に残された。「神の赦しは人を動かし、動かされた人は証しの生涯を送る」、そのドラマがこの短い手紙の中に隠されている。

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