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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年10月3日祈祷会(エレミヤ7章、エレミヤの神殿批判)

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  • エレミヤの神殿批判

・エレミヤ書は7章から後期預言に入る。アッシリアの衰退に乗じて国力を増したヨシヤ王はエジプトとの戦い(前609年、メギドの戦い)で戦死し、イスラエルはエジプトの支配下に入る。ヨシヤの子ヨアハズが即位するが、彼はエジプト王ネコにより廃され、その兄エホヤキム(ヨヤキム)がエジプトの傀儡王として立てられる。戦争の危機が高まり、人々は神殿に行き、国家の安泰を祈願した。エレミヤは「神殿がある限り、自分たちは安泰だ」とする人々を批判する。-エレミヤ26:1-6「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ『主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ・・・もし、お前たちが私に聞き従わず、私が与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わした私の僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば・・・私はこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする』」。(26章以下は弟子バルクの書いたエレミヤ伝である)。

・その神殿での説教がエレミヤ7章だ。エレミヤは「主の神殿、主の神殿」と叫べば救われるとする愚かさを指摘する。祝祭日を祝うために礼拝に集まった人々への呼びかけだ。-エレミヤ7:2b-4「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」。

・ヒゼキヤ王の時代、アッシリアに攻め込まれたイスラエルは、敵軍に疫病が発生し、奇跡的に勝利した。以降、「神殿に祈ればエルサレムは不滅だ」とする神話が生まれた。-列王記下19:32-34「主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない、と主は言われる。私はこの都を守り抜いて救う。私自らのために、わが僕ダビデのために。」

・しかし、エレミヤはこの奇跡や神風を待ち望む人々に語る「主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」。-エレミヤ7:5-8「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、私はお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない」。

・彼らは口では「主よ、主よ」と叫ぶが、現実の生活では、異教の神々に香をたき、人々を搾取し、金もうけに奔走する。そこに救いがあるのかとエレミヤは言う。-エレミヤ7:9-11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる」。

・そしてエレミヤは神殿崩壊の預言をする。これは当時の最大のタブーを犯す行為であった。神殿こそがイスラエルの宗教の核心、聖なるものであった。-エレミヤ7:14-15「私の名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、私はシロにしたようにする。私は、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちを私の前から投げ捨てる」。

・イエスが処刑された最大の理由も神殿を批判したことであった。イエスはエレミヤ書を引用して、神殿批判を行われた。-マルコ11:15-19「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」。

2.執り成しの祈りを禁じられるエレミヤ

・この結果、エレミヤは神殿祭司たちに捕えられ、死刑を宣告される。-エレミヤ26:11「祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。『この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました』」。

・エレミヤは最後に減刑されるが、神殿への立ち入りを禁止される。そして主はエレミヤに、民のために執り成しの祈りをすることを禁じられる。-エレミヤ7:16-20「あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげて私を煩わすな。私はあなたに耳を傾けない。ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、私を怒らせている。彼らは私を怒らせているのかと主は言われる、むしろ、自らの恥によって自らを怒らせているのではないか。それゆえ、主なる神はこう言われる。見よ、私の怒りと憤りが、この所で、人間、家畜、野の木、地の実りに注がれる。それは燃え上がり、消えることはない」。

・預言者が民のための取りなしを禁じられた時、その機能の半分を喪失する。預言者の役割は神と民との仲介だからだ。しかし機能の喪失は預言者を新しくする。ベートーベンの代表作(運命、合唱他)は彼が聴力を失った後に書かれ、ミルトンは失明した後に「失楽園」を書いている。彼は言う「失明は惨めではない。失明に耐ええぬことが惨めなのである」。

・ヨシヤ王は神殿改革をしたが、その子エホヤキムの時代になると、人々の信仰は形式的になり、信仰の中心が偶像礼拝、特にバビロニアの女神イシュタルト礼拝となる。あまりにも厳しい父なる神の定めを避け、受容的な女神礼拝に人々は傾いていく。カトリック教会がいつの間にか、父なる神への礼拝からマリア信仰に熱心になったのと通じるところがある。彼らは長子を火に奉げるモロク礼拝も行っていた。長子を奉げることで神の関心を買う異教礼拝である。-エレミヤ7:31「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない」。

・このようにあなたたちが勝手に礼拝を行うのであれば、主に捧げる「焼き尽くす捧げもの」も自分で食べたらどうか、どうせ本心から捧げていないのだからとエレミヤは皮肉る。-エレミヤ7:21「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、生贄の肉に加えて食べるがよい」。

・偶像礼拝とは、木や金でできた像を拝むことではなく、真の神から目を背けることだ。自分たちに都合のよい神々、自分たちの欲望をかなえてくれる神々を拝むことだ。彼が求めるのは、彼の富、彼の健康、彼の幸福であり、隣人は見えなくなる。礼拝が正しく行われない時、それは必然的に社会的不正をもたらす。-エレミヤ7:23-28「私は彼らに命じた『私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』。しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず・・・私に背を向け、顔を向けなかった・・・それゆえあなたは彼らに言うがよい『これは、その神、主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その口から真実が失われ、断たれている民だ』」。

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