- 悔い改めない民への嘆き
・ユダが他国に占領されるとは、墓に埋められている宝物を掘り出すために、墓が暴かれることをも意味する。アッシリア人はこのような暴虐を行った。古代人は屍が葬られないことを最も恐ろしいことと考えた。
-エレミヤ8:1-3「そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。私が他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる」。
・ヨシヤ王死後、イスラエルの人々は戦争が近づいたことを悟り、エルサレム神殿に行き、国の安泰を祈る。しかしエレミヤは「お前たちが悔い改めない限り、主の神殿、主の神殿と叫んでも何にもならない。主自らが神殿を破壊される」と預言した。
-エレミヤ26:1-6「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ『主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ・・・もし、お前たちが私に聞き従わず、私が与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わした私の僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば・・・私はこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする』」。
・祭司たちは怒り、エレミヤを死刑にしようとする。エレミヤは支持者の助命で救われるが、彼は倦むことなく預言を続ける。その預言が8-10章にある。彼は言う「人は倒れても起き上がり、道を迷ってもまた帰ってくる。それなのに、このかたくなな民は帰ろうとはしない」。
-エレミヤ8:4-5「倒れて起き上がらない者があろうか。離れて立ち帰らない者があろうか。どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」。
・「自分たちは罪を犯した。自分たちは滅びるしかない」と自覚し、嘆き求めるならば、主は憐れんで下さるだろう。しかしイスラエルの民は罪の自覚がない。自分たちの置かれている場が彼らには見えない。
-エレミヤ8:6-7「自分の悪を悔いる者もなく、私は何ということをしたのかと言う者もない。馬が戦場に突進するように、それぞれ自分の道を去って行く。空を飛ぶコウノトリもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。
・「馬が戦場に突進するように、それぞれ自分の道を去って行く」、人が罪を認めるのは、自分の足場が崩され、どうしようもなくなった時だ。破滅までいかないと人は罪がわからない。自然のままの人間には悔い改めは不可能なのだ。だから神が行為され、彼を打ち、彼を死の淵まで連れて行かれる。
2.民の悲しみがわが悲しみとなる
・その民の状況を知りながら、神殿書記たちは、民や自分たちの行為を正当化し、平和がないのに「平和、平和」と呼ぶ。このような偽預言者たちは捕らえられ、断罪されるとエレミヤは告発する。
-エレミヤ8:8-9「どうしてお前たちは言えようか『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているというのか」。
・この告発はイエスの律法学者批判と同じだ。神の戒め=律法を知りながら、彼らはそれを行おうとはしない。そのために審判が為される。
-エレミヤ8:14-15「何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ。平和を望んでも、幸いはなく、いやしの時を望んでも、見よ、恐怖のみ」。
・エレミヤは民を告発し、破滅を預言しながら、共に泣く。民の嘆きの声は預言者の嘆きの声となる。エレミヤは涙を流しながら、預言をしている。「昼も夜も私は泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」、後代の人々はエレミヤを「涙の預言者」と語った。
-エレミヤ8:18-23「私の嘆きはつのり、私の心は弱り果てる。見よ、遠い地から娘なるわが民の叫ぶ声がする。『主はシオンにおられないのか、シオンの王はそこにおられないのか。』なぜ、彼らは偶像によって、異教の空しいものによって、私を怒らせるのか。刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、私は打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。ギレアドに乳香がないというのか、そこには医者がいないのか。なぜ、娘なるわが民の傷はいえないのか。私の頭が大水の源となり、私の目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜も私は泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」。
*ギレアドに乳香がないというのか=ギレアドは薬用に用いる乳香の産地、エレミヤはここでユダの傷を癒す薬もないのかと問いかける。
・イエスもまたエルサレムの裁きが近いことを知り、「涙を流される」。エルサレムは紀元70年、ローマ軍に侵略され、滅びる。イエスの嘆きはエレミヤと同じだ。民の滅亡を受け入れることができないのだ。
―ルカ19:41-44「エルサレムに近づき、都が見えた時、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
3.エレミヤ8章の黙想(国が亡びるとはどういうことか)
・ユダ王国の最終的な滅亡は紀元前587年に起きた。その時の様子が哀歌に詳しくある。イスラエルの受けた裁きはバビロニア軍の侵攻、首都エルサレムの陥落、王国滅亡、民の離散として、目の前の現実となりました。町は焼かれ、民は殺され、国の指導者たちは敵の都バビロンに捕虜として連れて行かれた。哀歌は歌う「街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死にました」(2:21)、「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が、畑の実りを失うよりも幸いだ。憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」(4:9-10)。戦争の絶望の中に彼らは放置された。哀歌の著者は嘆く「私は主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。その私を、御手がさまざまに責め続ける。私の皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く」(3:1-4)。
・日本も同じ体験をしている。敗戦後の日本をもまたエレミヤ哀歌を経験した。宇田川潤四郎は「家庭裁判所の父」と呼ばれた人だが、満州からの引揚者で、敗戦直後の日本に帰ってきたときの様子を記録に残している「昭和21年8月の東京上野駅は身動きの取れないほどの混雑だった。焼け残った駅舎から南の御徒町にかけて、ずっと焼け野原が広がっていた。鉄道の高架に添って屋台が並び、そこをとり囲むように、カーキ色の服を着た人でごった返している。左右には浮浪児たちが何十人もいた。夏の日差しを避けて、軒下や階段に、表情の失せた顔で横たわっている。誰もがぼろぼろの衣服を身にまとい、土色の乾いた髪が放射状に伸びたままだった。中には半裸の幼児もいた。日本は大変なことになっている、宇田川親子はこの浮浪児の姿に強い衝撃を受けた」(清水聡著、家庭裁判所物語)。