1.最後の規定
・12章から始まった申命記法は25章で終わる。終わりを飾るのも、隣人愛と子孫による命の継承の二点に関する法である。最初に有罪の宣告を受けた者の処罰においてもあくまでも隣人として振舞うことが求められる。40回以上のむち打ちは人を死に至らしめるために禁止される。
-申命記25:2-3「有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである」。
・パウロは何度も鞭打ちの刑を受けたが、それは39回までに留められていた。申命記の戒めは500年後のパウロの時代にも生きていた。
-第二コリント11:23-25「鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度・・・」
・脱穀作業に従事する牛にくつわをかけるなと命じられる(申命記25:4)。パウロはこの言葉を「伝道者は伝道で生計を立てるのは当たり前だ」と述べる文脈の中で引用する。
-第一コリント9:9-14「モーセの律法に『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります・・・耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です・・・主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」。
・升や重りを誤魔化すな。隣人に対して正しく商えと命じられる。
-申命記25:13-15「袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。家に大小二つの升を置いてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである」。
・背景には、誤魔化して儲ける者がいたという事実がある。聖書は隣人に対する貪りを非難する。
-アモス8:5-7「お前たちは言う『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』。主はヤコブの誇りにかけて誓われる『私は、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない』」。
2.生命の継承としての子ども
・古代ヘブル人は死後の生命についての希望を持たなかった。彼らの生命はその子孫の生命の中に生き続けると考えた故に、彼らは子孫の永続と家名の誇りを残すことを願った。その一つがレビラート婚(兄弟婚)の規定である。
-申命記25:5-6「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」。
・人はみな自分の子どもを残したいのであって、兄のために子どもを残そうとは望まない。レビラート婚(レビラート=ラテン語で夫の兄弟)は法による強制を伴っていた。
-申命記25:7-9「その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである『私の義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、私のために兄弟の義務を果たそうとしません』。町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が『私は彼女をめとりたくない』と言い張るならば、義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて『自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる』と言うべきである」。
・レビラート婚の戒めが創世記ヨセフ物語の中にもある。
-創世記38:6-10「ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。『兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい』。オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された」。
・子を産まないで家に戻されることは当時の婦人にとって恥辱であった・・・タマルは義父ユダが三男の嫁にも、また彼自身の後妻にも迎えてくれないことを知り、ユダが近隣に来る時を狙って、自ら進んでユダに身を任せ、子を得ようとした。タマルはユダによって妊娠し、双子のペレツとゼラを産んだ。このペレツがユダの後継者になり、その子孫からダビデが、そしてキリストが生まれていく。神の不思議な摂理である。
3.申命記25章の黙想(律法と福音)
・イエスは言われた「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:16-17)。「律法や預言者」は、旧約聖書を指し、旧約聖書の最初のモーセ五書(創世記、出エジプト記、民数記、レビ記、申命記)が「律法」であり、イスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」だ。そこに語られていることに従って生きることこそ、神の前に正しい生き方だと誰もが思っていた。
・「律法学者やファリサイ派」の人々は聖書を日夜学び、教えを守り、行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、人々に教えていた。「立派な行いをしなさい」ということは、「律法学者やファリサイ派の人々のようになりなさい」という意味だと聴衆は思った。ところがイエスは「そうではない」と言われる「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)。
・21節からの段落では、「殺すな」との戒めに対して、兄弟に対して腹を立て、「ばか」とか、「愚か者」と人をののしることも、殺すことと同じだと言われる。律法学者やファリサイ派の義は、殺人を犯さなければ、「殺すな」という律法を守ることになるが、イエスは、「あなたがたは隣人に対する怒りの心をも抑えていくのだ、それが律法学者やファリサイ派の人々にまさる義なのだ」と語られる。27節から始まる姦淫の戒めも、律法学者は「不倫を犯さなければ姦淫ではない」とするが、イエスは「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をした」(5:28、口語訳)と言われる。イエスは語られた「表に現れた罪(Crime)だけでなく、心の中にある罪(Sin)の思いをも神は見られる、それが出来なければ、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義とは言えない」。
・イスラエルの律法は元来、神と民との契約として結ばれた条文である。律法とは、イスラエルを神の民として生活を秩序づけ、神の共同体として繁栄させるものだった。しかしイスラエルは国を滅ぼされ、律法はその基盤である共同体性を失い、個人主義化していく。捕囚期のユダヤ共同体は、「割礼を受けることがユダヤ民族の証し」であり、「安息日に礼拝を守る」ことを通して、民族の同一性を保もとうとした。特に重要視されたのが安息日規定で、宗教指導者たちは細かい規則を作って、安息日厳守を人々に要求した。安息日には一切の仕事をすることが禁じられ、火をおこすこと、薪を集めること、食事を用意することさえも禁じられ、侵す者は「主との契約を破る者」として批判されるようになる。
・イエスはこの形骸化した律法の有様を強く批判された。イエスが教えられたのは本来の律法の持っている意味だった。イエスは、「殺すな」との戒めは、「心で兄弟を怒る」ことをも含むと言われる。兄弟に腹を立てるとは、怒りや憎しみの感情を相手に持つことで、その怒りや憎しみがやがて兄弟を殺すという行為にまでなる。創世記の「カインとアベルの物語」はその典型で、弟アベルに嫉妬したカインは怒りのあまり弟を打ち殺す。怒りが人を憎しみに追いやり、やがては殺人という忌まわしい行為に導く。私たちは反論する「私は人殺しなどしたことはない」、その私たちにイエスは語られる「殺したいほど人を憎んだことはないのか」、私たちは下を向かざるを得ない。
・イエスは「姦淫するな」との戒めは、「情欲をいだいて女を見る者は姦淫した」(5:28)と言われる。不倫は目から始まり、心の中にある情欲がやがては不倫にまで行きつく。人は肉体的欲望を抑制することはできない、たとえ不倫をしなくとも、不倫したいという思いに心を乱したことのない人はいないであろう。現代は「3組に1組が離婚する」時代であり、離婚原因の筆頭は配偶者の不倫である。心の中にある情欲が不倫という行為になり、家族を崩壊させる。イエスは血が通わなくなって形骸化した律法に新しい命を吹き込む教えを説かれた。それを聞く私たちは、「殺すな」、「姦淫するな」という世の戒めを超える生き方、恵みを生活化する生き方が求められている。