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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年5月18日祈祷会(箴言1章、主を畏れることは知恵の初め)

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1.主を畏れるは知恵の初め

 

・「箴言」は、「コヘレトの言葉」や「ヨブ記」と並んで知恵文学でと呼ばれる。ソロモン作と言われている。ラビの伝承では、ソロモンは青年期においては「雅歌」を、中年期においては「箴言」を、老年期においては「伝道の書」を著したという。ソロモンが智恵に優れていたという伝承から来るのであろう。ただ箴言は数百年にわたる古老の格言、教訓、教え等であり、一部はソロモン時代に書かれたが、最終的に捕囚後の紀元前3世紀ごろに編集され、シナゴーク等で子供たちを教育するためのテキストとされていた。

-箴言1:1-6「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため、諭しを受け入れて正義と裁きと公平に目覚めるため。未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え、聡明な人も指導力を増すであろう。また、格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解するため」。

・箴言1章は三つのことを語る。最初は、「主を畏れることは知恵の初め」という基本だ。

-箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。

・この教えは箴言に繰り返し現れる。箴言は単なる世の知恵の言葉ではなく、信仰者としていかに生きるかを教える知恵の言葉である。

-箴言9:10「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」。

・同じ知恵文学に属する詩篇も「主を畏れる事こそ知恵の初め」と説く。

-詩篇1:1-2「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。

・その知恵を両親から学べと作者は語る。父の教えはムウサル(諭し、訓練)であり、必要があれば、懲罰を与えることもあろう。母の教えはトーラー(律法)であり、言葉による指導である。現代日本では離婚が増え、多くは母親が親権を持ち、経済的に困窮になりやすく、子供の成育に悪影響を及ぶことが多い。子の良好な生育には両親が必要であり、共同親権等の考慮が必要であろう。

-箴言1:8-9「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。それらは頭に戴く優雅な冠、首にかける飾りとなる」。

 

2.悪に交わるな、知恵の言葉に耳を傾けよ

 

・二番目の教えは「悪人と交わるな」である。現代では、若い人たちが安易な金儲けのために犯罪に走るが、そのことによって生涯が台無しにされる。大学生がアルバイト感覚で振り込め詐欺の受け子役を行い、違法口座の開設や携帯電話の詐取を行い、大学を退学になる者が増えている。不義の種を蒔く者はその実を刈り取らなければいけないことを教えるべきであろう。

-箴言1:10-14「わが子よ、ならず者があなたを誘惑してもくみしてはならない。彼らはこう言うだろう『一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち、陰府のように、生きながらひと呑みにし、丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。金目の物は何ひとつ見落とさず、奪った物で家をいっぱいにしよう。我々と運命を共にせよ。財布もひとつにしようではないか』」。

・ラビは語る「悪人は彼の衝動の支配下にある。しかし義人は彼の衝動を制御の下に置いている」。その違いは「主を畏れる」か、どうかであろう。主を畏れる者は「主が見ておられる」ことを知るゆえに、彼の行動を制御することができる。

-箴言1:15-19「わが子よ、彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。彼らの足は悪事に向かって走り、流血をたくらんで急ぐ。翼あるものは見ている。網を仕掛けるのは徒労だ。待ち伏せて流すのは自分の血。隠れて待っても、落とすのは自分の命。これが不当な利益を求める者の末路。奪われるのは自分の命だ」。

・三番目の教えは「知恵の言葉に耳を傾けよ。愚か者になるな」という戒めである。

-箴言1:20-27「知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。『いつまで、浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを好み、愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、私の懲らしめを受け入れるなら、見よ、私の霊をあなたたちに注ぎ、私の言葉を示そう。しかし、私が呼びかけても拒み、手を伸べても意に介せず、私の勧めをことごとくなおざりにし、懲らしめを受け入れないなら、あなたたちが災いに遭うとき、私は笑い、恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い、災いがつむじ風のように起こり、苦難と苦悩があなたたちを襲うとき』」。

・人は自分が蒔いた結果を刈り取る。愚かな行為は愚かな結果を招き、知恵に従う者は幸せを得る。

-箴言1:28-33「その時になって、彼らが私を呼んでも私は答えず、捜し求めても私を見いだすことはできない。彼らは知ることをいとい、主を畏れることを選ばず、私の勧めに従わず、懲らしめをすべてないがしろにした。だから、自分たちの道が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り、愚か者は無為の内に滅びる。私に聞き従う人は確かな住まいを得、災難を恐れることなく平穏に暮らす」。

 

3.箴言1章の黙想

 

・箴言は経験則に基づく処世訓である。しかし経験則では説明の出来ない不条理がこの世にはある。その知恵の限界を鋭くえぐるのがヨブ記である。

-ヨブ記9:22-24「私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。

・しかしヨブも最後は神の前にひれ伏す。私たちは神なしには正しい人生は歩めないのだ。

-ヨブ記42:1-6「ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。その通りです。私には理解できず、私の地識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、私が話す。お前に尋ねる、私に答えてみよ』。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。

・コヘレトも箴言の処世訓に疑問を投げかける。

-コヘレト書8:14「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、私は言う」。

・義人が敬われない社会においては、正義が見失われ、悪を裁く力が低下している。しかしその中にも神の摂理もあるのではないかとコヘレトは希望をかける。

-コヘレト8:11-13「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている。にもかかわらず、私には分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない」。

・詩人の水野源三は詩集「わが恵み、汝に足れり」で歌う「不条理の意味を教えてください」と。わからないことは神に訴えても良いのだ。

-詩集・わが恵み、汝に足れり「主よ、何故そんなことをされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみが満ちています。主よ、どうぞ、このことをわからせたまえ」。

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