1.神に逆らう人は国を滅ぼす
・誰が指導者になるかは国の命運を決定する。民は神に従って正しい政治を行う指導者を求める。神に逆らう人が指導者になれば、民の苦しみは増す。
-箴言29:2-4「神に従う人が大いになると民は喜び、神に逆らう人が支配すると民は嘆く・・・王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす」。
・エゼキエルは民のことを考えずに、自分の利益ばかりを求める指導者を「自分を養う羊飼い」として批判した。彼らの強欲によってイスラエルは滅んだと預言者は断罪する。
-エゼキエル34:2-6「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱い者を強めず、病める者を癒さず、傷ついた者を包んでやらなかった。また、追われた者を連れ戻さず、失われた者を探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。私の群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、私の群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」。
・支配者が正しい政治をしない時、国民はどのようにすべきなのだろうか。ナチスが政権を取った1933年、ドイツのルター派教会はナチス政権を神が与えた器として受け入れていく。理論的指導者となったP.アルトハウスはローマ13章を引いてナチスを合法政権として受け入れた。
-ローマ13:1-3「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう」。
・他方、改革派教会のカール・バルトは、為政者が神の委託を超えて悪を行う時、キリスト者はそれに従うべきではないとして、反ナチスのバルメン宣言を起草した。その根拠となったのは使徒言行録にあるペテロの留保だった。
-使徒4:18-20「そして(祭司長たちは)、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。
・同じ聖書から、ナチス政権に従うという決定も、従わないという決定も出てくる。聖書の断片的な言葉ではなく、文脈から、あるいは聖書全体から見ていくべきであろう。その時、為政者の権力は一定の制約の下にあると考えるべきである。サムエル記は王権神授説を明確に否定している。
-サムエル記上8:6-9「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい』」。
- 弱い人に配慮する王の王座は永久に
・箴言は王に対して正義を行うように求める。支配者が偽りの言葉に耳を傾ける時、国は乱れる。王は弱い者の言葉にこそ耳を傾けよと箴言は求める。
-箴言29:12-14「支配者が偽りの言葉に耳を貸すなら、仕える人は皆、逆らう者となる。貧しい人と虐げる者とが出会う。主はどちらの目にも光を与えておられる。弱い人にも忠実な裁きをする王。その王座はとこしえに堅く立つ」。
・権力者は追随者の言葉に耳を傾けがちだ。しかし人を最終的に裁くのは、「王ではなく主である」と箴言は語る。
-箴言29:26「支配者の御機嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である」。
・最終的な裁きは主のものである。従って、不正を行う王は一時的に栄えてもやがて滅びると警告される。
-箴言29:16「神に逆らう者が多くなると罪も増す。神に従う人は彼らの滅びるさまを見るであろう」。
- 幻なき民は滅びる
・29章で最も有名な言葉は18節の「幻なき民は滅びる」であろう。玉川学園講堂には英文「No vision the people perish」が掲げてあるという。創立者・小原国芳は語る「幻のない、夢のない、理想のない、虹のない、空想のないところには一切の成就はない。夢こそ成功の原動力である」。
-箴言29:18「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである」。
・幻にはイリュージョン(幻想)という意味と、ビジョン(展望)という意味の二つがある。弟子たちの復活体験も、「イエスの幻=ビジョン」を見たと言えるだろう。
-大貫隆・イエスという経験から「ペテロを筆頭として、イエス処刑後に残された者たちは、何処とも知れず逃亡先に蟄居して・・・必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けたに違いない・・・彼らは旧約聖書を繰り返し読み、そこに意味を見出そうとした。そして旧約聖書の光に照らされて、いまや謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、旧約聖書で預言された出来事として了解し直された。直接のきっかけがペテロの個人的な幻視(あるいは神秘体験)であったとしても、旧約聖書の光に照らしての、否、旧約聖書のそのものの新しい読解としての謎の解明がそこで為された」。
・今日の若者たちは幻を持てなくなっている。経済成長は終わり、人口は減少し、将来に待っているのは、良くても現状維持、悪ければ今の生活水準の切り下げだと思っている。そのような時代に教会は何を語れるのだろうか。パウロの言葉は現在においても意味を持ち続けると思える。
-第二コリント4:7-11「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。
・4:8「途方に暮れても失望しない」。原文では「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」。私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時がある。これまでにもあったし、これからもあるだろう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れる。パウロも途方に暮れたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がった。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」だ。
・「たゆたえども沈まず」、パリの市章に刻まれた言葉である。長い歴史の中で、パリは何度も災禍や戦火に見舞われ、苦渋と試練の時を過ごしてきた。20世紀に起こった二つの世界大戦では、フランス国土の大部分が戦場になった。第二次世界大戦では、ナチスドイツによって蹂躙され、パリ市内を占領されるという屈辱も経験している。2015年11月13日には、イスラム過激派のテロリストが市内の複数の場所で銃を乱射し、多数の死傷者を出した事件(パリ同時多発テロ銃乱射事件)もあった。パリはこれまでの歩みの中で傷つき続けており、満身創痍に見える。同時に、数々の難事を乗り越えてきたしたたかさとしぶとさを兼ね備えた街でもある。まさに「途方に暮れても失望しない」(第二コリント4:8)を体現した言葉だ。
・それはイザヤが「主の僕の歌」で表現した生き方だ。
-イザヤ42:1-4「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。
・マタイはイエスにこの主の僕を見た。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」メシアであると。
-マタイ12:15-21「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気を癒して、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った、愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。』」