1.主は人の心の中を測られる
・主がこの世を支配しておられ、世は主の摂理の中にある。その中で、私たちは生かされ、自由を与えられる。そして、主は人間の心を測られると箴言記者は語る。
-箴言21:1-2「主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」。
・知恵ある者は機略に富み、敵の砦を落とすことが出来る。しかし最後の勝利を与えられるのは主である。自分の力で成し遂げたと思ってはいけないと記者は書く。
-箴言21:22「知恵ある人は一人で勇士たちの町に上り、その頼みとする砦を落とすこともできる」。
-箴言21:30-31「どのような知恵も、どのような英知も、勧めも、主の御前には無に等しい。戦いの日のために馬が備えられるが、救いは主による」。
・人の美しい思いも挫折に終わることがある。挫折を通しても、主はその御心を為される。報道カメラマンの後藤健二氏はイスラム国に捕らえられ、殺された。彼は不遇の死を死んだのだろうか。しかし彼の思いはその死を通じて伝えられている。彼が発信した言葉が今人々の心をとらえ始めている。
-後藤健二・2010年9月7日・ツイッターから「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」。
・パウロも長い苦闘の果てにローマで殉教した(紀元60年代)。しかし、彼は喜んで死んだのではないだろうか。キリストが彼のために死んで下さった。だから彼もそれに続いた。人は死を通しても神を賛美することが出来るのだ。
-ローマ5:6-8「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。
2.生贄よりも正義を
・ユダヤ教は犠牲の宗教である。犠牲の動物を捧げる事によって、自分の罪の赦しを乞う。しかし箴言記者は、主は生贄を捧げるよりも正義を求められると書く。
-箴言21:3「神に従い正義を行うことは、生贄をささげるよりも主に喜ばれる」。
・主が求められるのは砕けた心であり、犠牲ではないと詩篇記者も歌う。
-詩篇51:18-19「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・預言者たちも「生贄よりも正義を」と叫んだ。主は生贄を必要とされない。求められるのは正義と公正だ。
-イザヤ1:11-17「お前たちのささげる多くの生贄が私にとって何になろうか、と主は言われる。羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に私は飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血を私は喜ばない。こうして私の顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、私の庭を踏み荒らす者よ。むなしい献げ物を再び持って来るな・・・お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
-アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・今日において正義の実現を妨げているのは、資本主義の弊害である格差の拡大である。日本の相対的貧困率(所得中位の半分の所得以下、日本では二人世帯で180万円以下)は14.9%で先進諸国の中ではアメリカに次いで高い(アメリカ17.1%、ドイツ11.0%、フランス7.1%、イギリス8.3%等)。課税や所得移転(年金や生活保護費等の支給)等の資産・所得の再配分が機能していない。その結果、金持ちと貧乏人の所得格差が拡大している。
-トマ・ピケティ/21世紀の資本から「バルザックの小説“ゴリオ爺さん”の中で、若い法学生が友人と議論する。『将来、裁判官や弁護士、検察官になって輝かしい仕事をするのと、銀行家の娘と結婚するのと、どちらが早く富にありつけるか』。法学生の友人は言う『結婚して相続した方が良い』。データを検証すると確かにその通りだった。同じ現象が、今起きている。現代は資産の格差が相続により固定化する世襲資本主義の時代に入りつつある」。
・パウロは捧げ物を「贈り物」という。神は捧げ物を必要とされない。必要とするのは貧しくされた人々である。だから私たちは献金を通して、貧しい人々に贈り物を捧げるのだ。これがパウロの献金理解であり、学ぶべき点が多い。献金は個人が行う資産・所得の再配分行為なのだ。
-第二コリント9:11-12「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」。
3.弱い人の叫びに耳を閉ざす者は
・ユダヤ教では、施しは神に従う行為として賞賛された。だから箴言記者も施しを勧める。
-箴言21:13「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない」。
・しかし施しは慈善ではない。それは慈善を超えた信仰の行為、生き方である。
-出エジプト22:20-23「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」。
・人は一人では生きられない。それなのに人は他者に無関心で自分のことのみ考える。パウロはエルサレム教会への支援をためらうコリントの人々にそれではいけないのだと説く。
-第二コリント8:12-14「進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」。
・ルカ16章「金持ちとラザロ」の例えを、自分に語られたものと聞いて、人生を変えられたのは、A.シュバイツアーだった。彼は30歳の時に医学を学ぶことを決意し、38歳で医者として赤道アフリカに赴いた。聖書を読むとはこういうことだ。彼は自伝「水と原生林のはざまで」に書く。
-「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。その金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。