1.悪者のことに心を燃やすな
・箴言記者は若者に対して、「邪悪な者の生活を羨むな、彼らの仲間に入るな」と警告する。
-箴言24:1-2「悪者のことに心を燃やすな、彼らと共にいることを望むな。悪者が心に思いめぐらすのは暴力。唇が語るのは労苦を引き起こすこと」。
・この世には、「神に逆らう者たちが罰を受けることなく栄えている」と思わざるを得ない現実がある。「神の戒めを守って何になるのか」と思う時がある。詩篇記者もかつてはそう思ったが、神から「そうではない」ことを示された。
-詩篇73:3-28「神に逆らう者の安泰を見て、私は驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている・・・彼らは言う『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか』・・・私は神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが・・・彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを・・・見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。私は、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。私は御業をことごとく語り伝えよう」。
・「悪は永続しない」と箴言記者は信じるゆえに、「悪を避けよ」と若者に勧める。
-箴言24:8-9「悪意ある考えを持つ者は陰謀家と呼ばれる。無知の謀は過ちとされる。不遜な態度は人に憎まれる」。
2.為すべきことを行わないこともまた悪である
・悪とは、単に「悪い行い」だけではない。為すべきことを行わないことも悪であると箴言は語る。
-箴言24:10-12「苦難の襲う時、気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、『出来なかったのだ』などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される」。
・この考え方は新約にも共通する。私たちは最後の審判において、「何をしたか」と同時に、「何をしなかったか」も問われる。
-マタイ25:41-46「それから、王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかったからだ』。すると、彼らも答える『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』。そこで、王は答える『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』」。
・ボンヘッファーは彼の時代(1930年代ドイツ)において、ユダヤ人迫害を見て見ぬふりをする多くの人に語った「正義を行わないであれば、あなたはキリスト者ではなくなる」と。
-ボンヘッファー獄中書簡集・抵抗と信従から「われわれが、今日、キリスト者であるということは、ただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」。
3.敵が倒れても喜ぶな
・敵が倒れても喜ぶな、自ら裁くなと語られる。
-箴言24:17-18「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう」。
・ユダヤ教の伝承はラビ・ヨナハンの言葉を伝える「エジプト人が海で溺れた時、天使たちは讃美歌を歌いたいと願い出たが、神は『何を言うか、わが手の作品が滅びたのに、お前たちは歌いたいのか』と言われた」。神にとって敵も味方も自分の民である。この事実を私たちは忘れてしまう。アブラハム・リンカーンの言葉は印象的である。
-リンカーン・第二期大統領就任演説から「(南北)両者とも同じ聖書を読み、同じ神に祈り、そして各々敵に打ち勝つため、神の助力を求めているが、彼らの祈りも私たちの祈りも、神はそのままには聞き届けられなかった。どれだけ神に勝利を願っても、生きた神は北軍の味方でもなければ南軍の味方でもなく、そのことについて神の意志を知ることはできなない。どちらの勝利という問題ではなく、奴隷制という悪を如何に取り除くかが問題なのだ。何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって、神が我らに示したもう正義の実現に力を尽くそうではないか」
・私たちが為すべきことは「敵を憎み、彼の上に災いを願う」ことではない。敵の処罰は神に委ねる。
-箴言24:19-22「悪事を働く者に怒りを覚えたり、主に逆らう者のことに心を燃やすことはない。悪者には未来はない。主に逆らう者の灯は消える。わが子よ、主を、そして王を、畏れよ。変化を求める者らと関係を持つな。突然、彼らの不幸は始まる。この両者が下す災難を誰が知りえよう」。
・決して自分の手で報復してはいけない。「それぞれの行いに応じて報いよう」とは神の言葉で会って、私たちの言葉ではない。
-箴言24:29「『人が私にするように、私もその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう』とは、あなたの言うべきことではない」。
・箴言25:21-22「報復するな」は有名な言葉だ。「敵が飢えていたら彼にパンを与えよ」、自分が何をしたいかではなく、神が何を求めておられるかを考えた時に出る行動だ。
-箴言25:21-22「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる」。
・出エジプト記にも同じような言葉がある。信仰は行為をもたらすのだ。
-出エジプト記23:5「もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」。
・これらの言葉はパウロがローマ書に引用したことで、より多くの人に愛唱されるようになった。「敵に対する最良の報復は敵に親切を尽くすことだ」とパウロは語る。
-ローマ12:17-21「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行った。当時、キングはアトランタ・エベニーザ教会の牧師だったが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄され、教会に爆弾が投げ込まれ、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中で行われた説教である。
-キング・汝の敵を愛せ「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。