1.捕囚の中で嘆く詩人
・詩編102編は「七つの悔い改めの歌」の一つだ。詩の時代背景は捕囚末期、あるいは帰還初期であろう。捕囚が終り、エルサレムへの帰還が始まったが、詩人自身は老齢のためか、病身のためか、帰還する事はできない。本詩は、自分は生きている内に神の栄光を見ることはできないという嘆きで始まる(捕囚からの帰還は長い年月に渡る継続的な帰国運動であった)。
-詩編102:2-3「主よ、私の祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。苦難が私を襲う日に御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶ時、急いで答えてください」。
・詩人は「自分はまもなく死ぬ」と意識している(「私の生涯は煙となって消え去る」、「骨は炉のように焼ける」)。病気が重いせいであろうか(「自分は取り残されてしまった」)と詩人は身の不幸を嘆く。「荒れ野のみみずく」、「廃虚のふくろう」、「屋根の上の孤立の鳥」、詩人は孤独の中にいる。
-詩編102:4-8「私の生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は、草のように乾く。私はパンを食べることすら忘れた。私は呻き、骨は肉にすがりつき、荒れ野のみみずく、廃虚のふくろうのようになった。屋根の上にひとりいる鳥のように、私は目覚めている」。
・詩人は、異教の地で死んでいかなければいけない、自分の人生は何であったのかと回顧する。「シオンの石を望み、塵をすら慕う」(15節)、詩人は故国エルサレムへの帰還を夢にまで見ているのに、それがかなわない。詩人は人生のはかなさを「私の生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」と歌う。
-詩編102:9-12「敵は絶えることなく私を辱め、嘲る者は私によって誓う。私はパンに代えて灰を食べ、飲み物には涙を混ぜた。あなたは怒り、憤り、私を持ち上げて投げ出された。私の生涯は移ろう影、草のように枯れて行く」。
2.次の世代へ希望をつなぐ
・12節までの嘆きが13節以下で賛美に変わる。13節は他の訳では「しかし」で始まる。「しかし、主は生きておられる、自分は帰国できないかもしれないが、次の世代は帰国の喜びを味わうことができる」。主は私たちイスラエルを見捨てられなかった、詩人はそのことの中に、希望と喜びを感じた。だから詩人は歌う「主を賛美するために民は創造された」と。
-詩編102:13-19「主よ、あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。どうか、立ち上がって、シオンを憐れんでください。恵みの時、定められた時が来ました。あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み、塵をすら、どれほど慕うことでしょう。国々は主の御名を恐れ、地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。主はまことにシオンを再建し、栄光のうちに顕現されます。主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。後の世代のためにこのことは書き記されねばならない『主を賛美するために民は創造された』」。
・祈りが聞かれる、願いが適うのは自分の代でなくとも良い。アブラハムは「あなたを大いなる国民にする」と祝福されて旅立った(創世記12:2)が、彼に与えられたのは、イシマエルとイサクの二人の子と、妻サラを葬るための小さな土地のみであった。「それで良いではないか」とヘブル書は記す。
-ヘブル11:13-16「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから・・・神は、彼らのために都を準備されていたからです」。
・自分はエルサレムに戻ることなく、死ぬだろう。しかし、主はエルサレムを再建して下さり、エルサレムには「主を賛美する」歌が流れるだろう。そのことを詩人は希望することができた。
-詩編102:20-23「主はその聖所、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け、死に定められていた人々を、解き放ってくださいました。シオンで主の御名を唱え、エルサレムで主を賛美するために、諸国の民はひとつに集められ、主に仕えるために、すべての王国は集められます」。
・詩人は人生が道半ばで閉じられようとしていることを嘆く。しかし、主の業は自分の死を超えて続いていく。「人は有限であるが神は永遠である」、人生の半ばで死んだとしても、その後は主に委ねれば良いのだ。
-詩編102:24-25「私の力が道半ばで衰え、生涯が短くされようとした時、私は言った『私の神よ、生涯の半ばで、私を取り去らないでください。あなたの歳月は代々に続くのです』」。
・102編26-28節はヘブル1:10-12に引用されている。有限の私たちは、神の永遠の中に希望を見出していく。全ての人の人生は未完の人生だ。しかし神は人の有限を超えて存在される。その神に希望を託して私たちは死んでいく。
-詩編102:26-28「かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません」。
3.詩編102編参考資料~次の世代に希望を託す(2003年3月3日説教「申命記34:1-8、私は約束の地を見た」から)
・申命記34章はモーセの死を記す。モーセは、エジプトの地で奴隷として苦しむ民を救うために立てられ、40年間の荒野の旅を経て、約束の地カナンを前にするモアブの地まで民を率いてきた。主が与えると約束された地はヨルダン川を挟んで目の前にある。しかし、モーセは約束の地に入ることは出来ず、モアブで死ぬ。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」(34:1)。その山の上で、これから民に与えられる約束の地を見た。しかし、モーセはその地に入ることは出来ない。
・モーセは主の命令によってモアブの地で死んだ。そしてモアブの谷に葬られたが誰もその墓の場所を知らないと申命記は記す(34:5-6)。モーセがどのように苦労して、民をここまで導いてきたのかを、私たちは出エジプト記や民数記を通じて知っている。そのモーセが約束の地を前にして、人間的に見れば無念の中に死んでいる。何故なのだろう。申命記の記事はそのような疑問を投げかける。
・申命記史家はモーセが神に対して罪を犯したから、約束の地に入れないのだと理解した。申命記は記す「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、私がイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない」(32:51)。私たちは納得できない。長い人生の中にあって、誰でも一度や二度は主に背き、罪を犯す。主はそれらの罪の一つ一つを赦されないかたなのか。モーセも納得していない。彼も主に抗議を申し立てている「私は、そのとき主に祈り求めた・・・どうか、私にも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」(3:23-25)。しかし、主は拒否された。申命記は記す「しかし主は、あなたたちのゆえに私に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主は私に言われた『もうよい。この事を二度と口にしてはならない』」(3:26)。モーセが無念の死を迎えたことを申命記は隠さない。
・聖書はもう一つの無念の死を私たちに告げる。イエスの十字架である。イエスは十字架を前に、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈られた「御心ならばこの杯を私から取り除いてください」。しかし、主はイエスの祈りを聞かれず、イエスを十字架につけられた。十字架上でイエス叫ばれた「我が神、我が神、何故私をお見捨てになったのですか」。福音書もまた、イエスが無念の思いで死なれたことを隠さない。
・私たちは思う。人生、この世の生は未完であって良いのではないか。私たちはこの世では約束の地を目指して旅をする。しかし、私たちの旅は死では終らない。死も途中経過の一つに過ぎない。モーセは荒野で死に、未完の生涯を終えた。そのことによってモーセは荒野に残り、民は引き続き荒野からの声を聞きつづけた。民は安住の地にありながら、モーセが荒野に残ることで、常に約束実現前夜の緊張状態に立ち戻される。この申命記が最終的に編集されたのはモーセの時代から700年を経たバビロン捕囚の時代であると言われている。約束の地に入った民はそこに王国を形成するが、やがて神から離れ、国が滅ぼされる。その滅びの中で、彼等は出発点であった荒野の経験を聞き直すためにモーセの言葉を編集した。申命記には「今日」と言う言葉が繰り返し出てくる。かつて先祖たちが約束の地に入る前に聞いた言葉を、その約束の地から追放された捕囚の民が「今日」聞いている。神は何故我々を約束の地から追放されたのかを知るために。それが申命記である。