1.安息日に賛美する
・詩編92編は安息日に神殿で歌われた讃美であろう。バビロンから解放されて故郷に戻った人々の賛美の歌といわれている。現代のシナゴークでも安息日の前に歌われるという。
-詩編92:1-4「賛歌。歌。安息日に。いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは。いと高き神よ、御名をほめ歌い、朝ごとに、あなたの慈しみを、夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは。十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて」。
・イスラエルにおいて安息日が厳守されるようになったのは、バビロン捕囚期以降である。捕囚地では人々は神殿での祭儀を禁止され、安息日ごとに集会を開いて祈りを捧げた。この安息日ごとの礼拝こそ、他国に捕らえられたイスラエルが民族の同一性を保持できた要因である。ユダヤの安息日毎のシナゴーク礼拝が現在のキリスト教会の主日礼拝の基礎になっている。
-イザヤ56:1-2「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は」。
・5節以下は神の摂理(主の御手の業)の素晴らしさが賛美される。「私たちはバビロンに捕えられていたが、神はそのバビロンを裁き、滅ぼし、私たちを故郷に連れ戻ってくださった」と詩人は賛美する。
-詩編92:5-7「主よ、あなたは、御業を喜び祝わせてくださいます。私は御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません」。
・神の摂理は隠されているゆえに、「愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしない」。様々な苦難において「神は何故このような悲惨を起こされたのか」と問う人が多いが、より大事なことは、「神はこの出来事を通して何を語ろうとしておられるのか」を求めることだ。教会が今回のロシアによるウクライナ侵略の意味を考える視点もそこにある。
2.試練を超えて恵まれる主
・詩人は大いなる試練によって信仰が揺さぶられる体験をした。50年に及ぶ捕囚の苦しみが背景にあるのかもしれない。しかし今、神は悪を裁き、善に報いられる事を知った。人は試練を通して神の隠された業を見る。
-詩編92:8-12「神に逆らう者が野の草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても、永遠に滅ぼされてしまいます。主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は・・・必ず滅び、悪を行う者は皆、散らされて行きます。あなたは私の角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう。私を陥れようとする者をこの目で見、悪人が私に逆らって立つのを、この耳で聞いているときにも」。
・人は試練の中で神の声を聞く。神に出会った時、怒ってばかりいた人が感謝するようになり、病気で死の床にある人も神に自分を委ね、愛する者を無くして泣いている人も神を賛美するようになる。ザアカイの喜びこそ神に出会った者の喜びだ。
-ルカ19:5-8「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』。しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」。
・現代社会は多くの不条理をはらむ。今回のロシアにおけるウクライナ侵攻では多くの人が殺され、国を追われた。シリアやアフガニスタンでも混乱は続いている。私たちに課せられた任務は、苦難と苦痛の中にある人々とともに、「十字架を自らに担うこと」なのであろう。それがどのような行動かを私たちは模索する。
-モルトマン「キリスト教神学は、自分の属するその国民の中で、またその国民とともに考えなければならない。キリスト教神学は、自分の属するその時代の中で苦難のただ中で、つまり具体的に、自分の属するその社会において苦難している者の中で、またその者とともに考える時に『時代に即応した』神学なのである。」
・詩人は歌う「神に従うものはなつめやしのように茂り、レバノン杉のようにそびえる」。なつめやし(棕櫚の木)は30メートルまで高くなり、200年を経ても実を結ぶ。そのように神は私たちが白髪になるまで守ってくださると詩人は歌う。
-詩編92:13-16「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、私たちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう、私の岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と」。
3.因果応報的な幸福論について
・詩篇92編には、素朴な因果応報論がある。「義人は神の祝福を受け、罪びとは神から呪われる」という幸福論は、時として貧困にあえぎ、障害に苦しむ人に罪人の烙印を押す。自己責任論につながりかねない。このような烙印を神への栄光に逆転させた人がナザレのイエスであった。
-ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。
・応報に基づく幸福論は、幸不幸の視点から善悪を見る。栄光や成功は神の祝福であり、失敗や悲惨は神の呪いであると。アメリカでは、「神の祝福を受けているならば、正しい者だ」という考え方が教会の中に強い。それは福音(良い知らせ)ではない。
-森本あんり「自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力した。だが、それだけでここまで来られたわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかったはずだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ」(「宗教国家アメリカのふしぎな論理」から)。
4.ウクライナのクリスチャンたちの祈り(Christian Today2022年3月5日)
・ロシアの軍事侵攻を受けているウクライナで、現地のクリスチャンたちが、地下室やシェルターに身を隠しながら、詩編31編を読んで祈っているという。詩編31編は、ダビデがサウル王に追われて、荒野に逃れていた時に作った詩だとされている。敵に囲まれる中、「急いで私を救い出してください」と神に切願する祈りが繰り返しつづられている。
-詩篇31:2-3「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって私を助けてください。あなたの耳を私に傾け、急いで私を救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください」。
-詩篇31:10,15-17「主よ、憐れんでください、私は苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます・・・私にふさわしい時に、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。あなたの僕に御顔の光を注ぎ慈しみ深く、私をお救いください」。
-詩篇31:22-25「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を、都が包囲された時、示してくださいました。恐怖に襲われて、私は言いました。「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かう私の叫びを、嘆き祈る私の声を、あなたは聞いてくださいました。主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて」