1.礼拝での讃美
・詩編111編は22行からなり、ヘブル語のアルファベット順に歌われる「いろは歌」である。内容・形式とも112編と対になっている。詩は「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」で始まり、礼拝の中で歌われた賛歌であろう。
-詩編111:1「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる、正しい人々の集い、会衆の中で」。
・中心テーマは「主の奇しき業」の讃美である。そこで語られているのは、出エジプトにおける救済の業である。
-詩編111:2-6「主の御業は大きく、それを愛する人は皆、それを尋ね求める。主の成し遂げられることは栄え輝き、恵みの御業は永遠に続く。主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み、主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力を御自分の民に示し、諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる」。
・主は不思議な御業を通してイスラエルをエジプトから解放して下さり、約束の地に導かれた。出エジプトにおいてなされた十の災いは全て自然現象である。主は自然現象を通じて、御旨を果たされる。
-詩編105:26-36「主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わされた。彼らは人々に御言葉としるしを伝え、ハムの地で奇跡を行い、御言葉に逆らわなかった。主は闇を送って、地を暗くされた。主が川の水を血に変えられたので、魚は死んだ。その地には蛙が群がり、王宮の奥に及んだ。主が命じられると、あぶが発生し、ぶよが国中に満ちた。主は雨に代えて雹を降らせ、燃える火を彼らの国に下された。主はぶどうといちじくを打ち、国中の木を折られた。主が命じられると、いなごが発生し、数えきれないいなごがはい回り、国中の草を食い尽くし、大地の実りを食い尽くした。主はこの国の初子をすべて撃ち、彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた」。
・最後の御業「主の過ぎ越し」は、記念してこれを祝えと命じられ、過ぎ越しの祭りとなっていく。
-出エジプト記12:24-27「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入った時、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねる時は、こう答えなさい『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」。
・イスラエルの祭りは、本来は農耕や牧畜の祭りであったが、やがてエジプトからの解放を記念するものになっていった。牧畜民の悪鬼を祓う祭り(子羊の血を門に塗り悪鬼の過ぎ越しを祈る)が主の過ぎ越しを記念するものとなり、小麦の収穫祭であった七週の祭りがシナイにおける律法授与を祝う祭りとなり、荒野における食物給食は仮庵の祭となっていく。
2.主の奇しき御業を賛美する
・後半から主の奇しき御業が民を救うための救いの業であったことが想起されていく。
-詩編111:7-9「御手の業はまことの裁き、主の命令はすべて真実。世々限りなく堅固に、まことをもって、まっすぐに行われる。主は御自分の民に贖いを送り、契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名」。
・エジプトからの救済は主の選び、贖いの業として記憶されていく。
-申命記7:7-8「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。
・その贖いの記憶は出バビロンにおいても継承されていく。
-イザヤ49:7-9「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる・・・私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して、荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」。
・贖いは新約においても継承されていく。キリストの血による贖いである。
-ローマ3:23-25「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」。
・詩編111編は「主を畏れることは知恵の初め」という句で締めくくられる。
-詩編111:10「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」。
・「主を畏れることこそは知恵の初め」とは箴言を貫く言葉でもある。
-箴言1:7「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。
3.詩篇111編の黙想~主を畏れることは知恵の初め
・「主を畏れることは知恵の初め」、欧米の大学は全て神学部から始まり、日本のミッションスクールも神学部から出発した。しかし世俗化の進展の中で、青山や立教、関東学院等の神学部は廃止され、西南学院神学部も大学院設置を契機に神学校から大学の学部・大学院になりつつある。同志社大学神学部ではクリスチャンコードさえ廃止されている。「主を畏れることは知恵の初め」という言葉をもう一度教会は思い起こすことが求められる。
・「主を畏れることは知恵の初め」、2020年9月、菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち6名を任命しなかった。これは現行の任命制度になった2004年以降、初めてのことである。今回任命されなかった 6 名の学者が、安倍政権時代に安全保障関連法や特定秘密保護法に関して批判的な立場をとってきた人文社会科学系の学者であったことから、政府の意図に沿わない人物を排除しようとする姿勢がある。神のいない社会では、判断は人間の恣意に委ねられる。人間を超える理念、例えば人権や民主主義に対する畏敬を忘れた時、政治は危険ゾーンに入る。
・「神を畏れることは知恵の初め」(箴言一章七節)同志社大学・越川弘英説教から(要約)。
-「神を畏れることは知恵の初め」、文学を学ぶよりも先に、社会学や法学や経済学や工学や、もろもろの学問を学ぶよりも前に、さらに言えば、神学を学ぶよりも先に、「神を敬うこと、尊ぶことを学びなさい」と言われている。なぜ神が、最初に学ぶべき対象なのか。それは、聖書によれば神がすべてのものの源だからである。神は天地を創造し、すべての命を創造し、歴史を導き、私たちの世界のすべてをかぎりない恵みと慈しみによって見守っていてくださる方だからである」。
-「事実、近世においてヨーロッパなどのキリスト教国において自然科学の発達を促した一つの要因は、神が作られたこの世界の仕組みをもっとよく知ろうとする科学者たちの素朴な信仰がその原動力にあった。神を愛するがゆえにこそ、神のお作りになった世界を、宇宙・自然・生物など、森羅万象において探求しようとする科学者たちの信仰が、さまざまな科学の発達をもたらした。今日では、不幸なことに、神を愛するがゆえに科学を学ぶ、という人びとはほとんどいなくなった。科学は科学そのもののために、技術は技術そのもののために、「純粋な学問」として行われることが建前となっている。しかし神を抜きにした「純粋な学問」なるものが、ある時には、ブレーキのきかない暴走状態のような状況を生み出したり、人間の欲望や好奇心に奉仕するだけの道具になっていたりするのを目にすることは、決して珍しいことではない」。
-「そうした科学や技術の発達が、結局、人間のエゴイズムを増長させるだけの結果となり、さまざまな面で矛盾や葛藤、果ては地球環境などといった次元にまで大きな災いを生み出している。現代人は、神を捨てて自由になったと思っているのかもしれないが、あるいはむしろ、神のいない不幸を我と我が身に呼び込んだというだけのことなのかもしれない。私たちは自分自身というものがどういう存在なのか、よく分かっていない。よく分かっていないからこそ、神なしには、やり過ぎてしまったり、やり足りなかったり、本当に必要なこととどうでもいいことを取り違えてしまって、自分も周囲も不幸になったり悩んだりするということが、繰り返し起こる。「神を知る」「神を学ぶ」ということは、「私のことを誰よりもよく知っておられる神を知る」ということ、視点を変えれば、「私のことを誰よりもよく知っておられる神を通して、私が私自身を知る」ということにもつながっていく。「私はいったい誰なのか、私は何のために生きているのか、私が果たすべき使命(ミッション)とは何なのか」。「あなた自身のことを知りたいのなら、まず最初に神を知れ」。これが聖書の知恵であり、私たちが学ぶべき第一のこと、すなわち、「神を畏れることは知恵の初め」ということなのではないか」」。