1.創造者への讃美
・詩編104編は天地を創造され、保持される神を賛美する。異邦人は自然そのものを神とするが、聖書は自然現象の背後にある神の創造を賛美する。詩は「私の魂よ、主を賛美せよ」と103編と同じ言葉で始まり、「私の魂よ、主を賛美せよ」で終わる。103編の続編あるいは同一作者のもので、作られた時期は創世記1章を知っており、捕囚後であろう(創世記はバビロンの捕囚地で書かれた)。
-詩編104:1-4「私の魂よ、主をたたえよ。主よ、私の神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる」。
・古代人は、世界は三層(天・地・地下)からなり、天は神の住まいとして堅固な建造物であり、そこに雨・雪・雹等の蔵があり、天の窓が開けばそこから雨が降り、地を潤し、川となって海に流れ、海の満ち引きも神の業と考えていた。
-詩編104:5-9「主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが・・・とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」。
・天地を創造された神は天地を保持される方である。詩人は雨に先立って神が泉を創造され、その水が生き物を養うさまを賛美する(雨の少ないパレスチナにおいては泉=地下水は貴重な水源である)。
-詩編104:10-12「主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み、野ろばの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き、草木の中から声をあげる」。
・雨季の雨は恵みである。神が天の蔵を開けられると雨が降り、地を潤す。主の恵みによって、万物は生きる。
-詩編104:13-17「主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち、そこに鳥は巣をかける」。
・詩人は第二イザヤを知っている。詩人もまた捕囚からの帰還者であろう。
-イザヤ55:10「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」。
・太陽と月の働きにより、昼と夜が分けられ、獣たちは夜になると活動を始め朝になると休み、人は朝になると活動を始める。
-詩編104:19-23「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり、森の獣は皆、忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き、それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く」。
2.創造の意味(創造と摂理)
・ 24節は天地を動かしておられる神の知恵に対する讃美である。宇宙万物は神の知恵の所産であると詩人は賛美する。
-詩編104:24「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」。
・「自然を見れば、父なる神の働きがわかるではないか。生かしてくださる神を信頼せよ」とイエスも言われた。
-マタイ6:26-29「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。
・万物は神の霊によって存在する。神の霊(息=共にルーアハ)が取り上げられれば生き物は死に、神の霊が与えられればまた新たに創造される。廃墟の中でも緑が芽吹き、草や木が森を作る。
-詩編104:27-30「彼らはすべて、あなたに望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。御顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し、地の面を新たにされる」。
・主は時に地震を起こされ、時に山の噴火を許されるが、大地の崩壊は許されない。自然は主の保持により継続されている。
-詩編104:31-34「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。主が地を見渡されれば地は震え、山に触れられれば山は煙を上げる。命ある限り、私は主に向かって歌い、長らえる限り、私の神にほめ歌をうたおう。どうか、私の歌が御心にかなうように。私は主によって喜び祝う」。
・神の創造は完全な秩序を示すが、その秩序を乱すのが人間の罪である。創造を賛美する詩の最後に、「罪が地上からなくなりますように」との祈りが来る。
-詩編104:35「どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように。私の魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ」。
*詩編104編参考資料:自然と人間2010年11月21日説教(ローマ8:18-30、現在の苦しみと将来の栄光)
・聖書は「死の問題」を正面から取り上げます。パウロがローマ8章で取り上げているのも死の問題です。「被造物は虚無に服している」(8:20)、私たちは死に至る存在であり、死ですべてが無くなると思うから、人生は無意味、無価値、虚無にならざるを得ません。何故死があるのか、罪の故です。パウロは言います「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものです」(8:19-20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。
・パウロは、自然そのものも人間の罪によって虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。人間の欲望が森林を乱開発し、鉱物や石油を大地から掘り出し、その結果大地は汚染されていきます。預言者エレミヤは大地の荒廃の中に人間の罪を見ます「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。現代ではアマゾンの熱帯林が乱開発によって死滅しつつあります。地球上の酸素の30%を供給し、「地球の肺」と言われる熱帯雨林の消滅はすべての生命にとって生存の危機をもたらします。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代において大事な言葉です。
・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来る。それは生みの苦しみ、救済への過程にあるとパウロは言います「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれ・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマ8:21-22)。
・人間の罪によって損なわれた自然はまた人間の悔い改めにより回復します。ペシャワール会の中村哲さんはパキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールのハンセン病患者治療のために派遣されました。しかし、いくら治療しても患者は減らず、逆に増えて行く現実の中で、今必要なことは医療よりも、病気の原因である飢餓と不衛生な水の摂取を減らすことだと知りました。彼はまず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次に水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とし、以来25年実行してきました。彼は10年間をかけてインダス川支流から水路を引き、かつて「死の谷」と呼ばれた砂漠が、今では緑の地に変っています。何が彼にそうさせたのか「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(ピリピ1:29)という信仰です。贖われて神の子となった者たちが自然回復のために働いているのです。福音の力が世界を変えうるのです。