1.主の驚くべき業を見よ
・詩編98編は96編と同じく、バビロン捕囚からの帰還という主の驚くべき業を体験した詩人が、「共に見よ、共に主を賛美せよ」と呼びかける詩である。歴史上なかった亡国の民の帰還という驚くべき出来事が起こったのだ。だから新しい時代に即した新しい歌を歌うと詩人は賛美する。
-詩編98:1-3「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人は、私たちの神の救いの御業を見た」。
・「地の果てまですべての人は、私たちの神の救いの御業を見た」は、第二イザヤ52:10からの引用である。主はバビロンに捕囚された民を解放されたとの賛美の歌である。
-イザヤ52:10「主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」。
・詩人は「この驚くべき業を見た全地の人々は共に歌え」と呼びかける。詩人はイスラエルという枠から自由だ。捕囚の体験が詩人の視野を広くしている。
-詩編98:4-6「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。琴に合わせてほめ歌え、琴に合わせ、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」。
・詩篇98:4はイザヤ52:9を引用している。詩篇98編は第二イザヤの救済預言を下図に用いて編まれたとされる。
-イザヤ「52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。
2.主は再び来られる
・バビロン捕囚からの解放は、第二の出エジプトであった。民は喜び勇んで帰国した。しかし、捕囚からの帰還は実際には困難に満ちたものだった。人々は廃墟のエルサレムに帰ったが、先住民からは歓迎されず、飢饉に追い込まれ、神殿建設も基礎工事のみで中断に追い込まれる。生きることが大変で、民衆は神殿どころではなかった。
-ハガイ1:9「お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき、私は、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、私の神殿が廃虚のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために、走り回っているからだ」。
・神殿建設は20年間中断したが、前520年にバビロンからゼルバベルが帰還して、総督となり、神殿再建事業を指導した。ゼルバベルはエホヤキン王の孫に当たり、ダビデ家の家系としてメシア的期待が持たれた。ゼルバベルは、大祭司ヨシュアと協力して再建事業を指揮し、また預言者ハガイとゼカリヤが彼らを支持し、前516年に第二神殿が完成した。
-ゼカリヤ4:9-10「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうしてあなたは万軍の主が私を、あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である」。
・完成後、民はゼルバベルが王になることを望んだが、支配するペルシャ当局はゼルバベルを捕らえ、抹殺した。事態がユダヤ独立運動に発展することを恐れたからだ。この度重なる挫折にも関わらず、人々は「主は再び来られる」とメシアを待望した。エッサイの株=ダビデ王朝はなくなり、切り株だけになっても、主はそこから新しい芽を送ってくださるとの信仰だ。
-イザヤ11:1-5「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する・・・正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。
・そのメシア待望が詩編98編を書かせた。そこにはイザヤ11章と同じ信仰が脈打っている。この信仰がある限り、人々はいつでも再起できる。私たちが、「主の驚くべき御業」に信頼し、挫折の連続の中で、主の来臨を待望し続けた時に、そこに奇跡が生まれる。
-詩編98:7-9「とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる」。
3.主の驚くべき御業
・詩篇98編の中で注目すべきは、1節~3節にある「神の不思議な御業」(ニフラオート)であると注解者月本昭男は述べる。苦難の中にある民や個人を救う神の「驚くべき業」こそ、人に神を讃美させる。
-月本訳詩篇98:1-3「ヤハウェに歌え、新しい歌を。実に彼は不思議な御業を行われた。ヤハウェはその御救いを知らせ、諸国民の目に正義を現わされた。イスラエルの家の故に、彼はその慈愛と真実を思い起こされた。われらの神に依る救いを、地のすべてが見た」。
・救済体験こそが、人に「神はおられる」ことを知らしめ、感謝の歌が生まれる。パスカルは語る「私たちの神は哲学者の神ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神」。神は不思議な業を通して、私たちにご自分を啓示される。
-カール・バルト教義学要綱から「神はアブラハムを召し、イスラエルの哀れな民を砂漠の中を導かれ、民の幾世紀にもわたる不信実や不従順によっても惑わされることのない方、ベツレヘムの家畜小屋の中に幼児として生まれ、ゴルゴダにおいて死に給う方である。この神が栄光に満ち、聖くいます方だ」。
・遠藤周作は「私にとって神とは」の中で語る。「私たちは神の存在を証明することはできない。しかし、神の働きを感じることはできる。だから私は「沈黙」に中に書いた『私は沈黙しているのではない。お前の人生を通して、私は語っているのだ』と」。
・「水の洗礼を受けた聖書」もその一つの現れである。もう駄目だと思えた時、予想もしないところから救済の業が始まる。
-2011年5月4日朝日新聞大阪版朝刊から「岩手県大船渡市にある小さな出版社が東日本大震災の津波で流され、在庫の本の多くも水没した。それでも「地域文化の灯火を消したくない」と再建を誓う姿に、北海道の文学館が共鳴、水をかぶった本を定価で販売する支援を近く始める。「イー・ピックス」は、新約聖書の四つの福音書を地元・気仙の言葉に訳した「ケセン語訳新約聖書」で知られるが、3月11日の大津波で事務所が流され、8千冊の在庫が水をかぶった。出版社の熊谷さんは、3人の社員と4月1日から営業を再開。これを聞いた三浦綾子記念文学館(旭川市)が「大津波の洗礼を受けながら残った貴重な本」として、館内で聖書を定価(5880円~6090円)で売りたいと申し出た。熊谷さんは「津波をくぐった聖書」と呼び、 個人からの注文にも応じるという」。
・「ケセン語訳新約聖書」を著した医師・山浦玄嗣さんは語る。そこにも神がおられたと。
-「3月11日午後2時46分。私が理事長の山浦医院の午後の診察が始まる時間でした。自宅のすぐ隣にある医院に入ると間もなく、大きな横揺れを感じました。揺れはいつまでも収まらず、船酔いみたいに吐き気がしてきたころ、ようやく静まりました。幸い自宅も医院も床上に浸水しただけで済みました。でも、津波でたくさんの友だちが死に、ふるさとは根こそぎ流された」。
-「14日の月曜日から医院を開けました。津波の後には寒い日が続きました。患者さんは停電した暗い待合室で、私が用意した毛布にくるまっていました。60人はいたでしょうか。患者さんには薬が必要なのです。不通になった鉄道の線路伝いに、家族のため雪で真っ白になり2時間かけ歩いてきたおじさんがいました。「遠いところ悪いが、5日分しか出せないよ」と言うと、ひとこと「ありがたい」。2時間かけて帰っていきました。もっと欲しいと言った患者さんもいます。でも「薬はこれだけしかない」と諭すと、はっとした顔になり「おれの分を減らして、ほかの人に」と譲りあってくれました」。
-「ががぁ(妻を)、死なせた」。目を真っ赤にしながらも涙をこらえた人。「助かってよかったなあ」と声をかけると、「おれよりも立派な人がたくさん死んだ。申し訳ない」と頭を下げた人。気をつけて聞いていましたが、だれ一人「なんで、こんな目に遭わないといけねえんだ」と言った人はいません。この人たちが罪深いから被災したのでもありません。あのつらいなか、意味のない問いかけをすることなく、人のために何ができるか、本当に生き生きとした喜びを感じるには何をすればいいのかと、懸命に生きていました。あっぱれな人たちに、私は出会えたのです」。