1.侮られた民の祈り
・詩篇123編の著者は神殿に来て祈る。神殿はヘブライ語で「ヤハウェの家」と呼ばれた、そこに主が住まわれると信じたからである。詩人は目をあげて主に祈る。
-詩篇123:1「都に上る歌。目を上げて、私はあなたを仰ぎます、天にいます方よ」。
・詩人は困難な状況にある。故に神の憐れみを求める。
-詩篇123:2「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、私たちは、神に、私たちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」。
・詩人は私たちを憐れんでくださいと繰り返し祈る。
-詩篇123:3「私たちを憐れんでください。主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあまりにも恥に飽かされています」。
・詩人を侮り、嘲笑するのは誰であろうか。「平然と生きる者ら」、「傲然と生きる者ら」等の表現から、イスラエルの民の中の富裕な権力者を指すと思われる。123編は貧富の格差が拡大した状況の中で、神の憐れみを求める貧しい人の祈りであろう。
-詩篇123:4「平然と生きる者らの嘲笑に、傲然と生きる者らの侮りに、私たちの魂はあまりにも飽かされています」。
・貧しい人たちは神の前に救済を求める。どうしようもない貧困からの救済を求める声をネヘミヤ記は丁寧に聞き取っている。
-ネヘミヤ記5:1-5「民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった。ある者は言った『私たちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい』。またある者は言った『この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない』。またある者は言った『王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。同胞も私たちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、私たちにも子供がある。だが、私たちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものだ。」
2.神殿は民の声を聴く祈りの場であった
・神殿は民が祈りをささげ、神の憐れみを求める場であった。その時、天の神はその声に耳を傾けられる。ソロモンの祈りが残されている。
-列王記上8:33「あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされた時、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください」。
・神殿はすべての民の祈りの場とされた。
-イザヤ56:7「私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物と生贄をささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。
・旧約の基本は祭儀律法であった。祭儀律法においては犠牲を捧げることによって罪が贖われるとする。しかし預言者たちは、「犠牲を捧げれば救われる」とする形式的礼拝に満足する人々を批判していく。
-アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。焼き尽くす献げ物を私にささげても、穀物の献げ物をささげても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。竪琴の音も私は聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・預言者たちの働きによって、礼拝の本質は祭儀ではなく、「いかに神の恵みに応えて生きるか」であることが明らかにされていく。「犠牲を捧げれば救われる」という時、「捧げる」という人間の行為が中心になり、そこには神はなく、あるのは自己の救いを求める自我だけである。旧約の歴史は祭儀を重んじる祭司と本質を求める預言者の戦いであった。
-エレミヤ7:9-11「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。私にもそう見える、と主は言われる」。
3.私たちにとって神殿とは何か
・イエスもエレミヤと同じように安易な神殿信仰を戒められた。神殿に参れば救われるのではないと。
-マルコ11:15-17「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された・・・そして、人々に教えて言われた『こう書いてあるではないか。私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」。
・イエスの宮清めを、後の弟子たちは、イエスは新しい神殿を形成するための贖いとして死なれたのだと理解した。ここに旧約を超えた新約がある。
-ヨハネ2:19-22「イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』・・・イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活された時、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。
・ヘブル書はイエスの犠牲の死によって、神殿祭儀はもはや不要になったと宣言する。
-ヘブル10:11-14「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。
・パウロは一人一人のキリスト者の体こそ神の霊が住まう神殿であるとした。
-第一コリント6:18-20「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。
・エフェソ書は教会共同体自身が神殿であるとする。私たちは教会堂を建てるが、会堂の建物自体を聖化してはいけない。
-エフェソ2:19-22「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。