江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年11月10日祈祷会(詩篇124編、主が私たちの味方でなかったら)

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1.苦難からの救済

 

・詩篇124編は民族の危機の時、主によって敵の手から助けだされた民の感謝の歌である。詩人は敵の手からの救いを火災からの救済、大水からの救いになぞらえている。状況としては、バビロンにおける強制労働から解放されて帰還したばかりの巡礼者の一群を思い描けば良いのだろうか。あの過酷な状況から主は救って下さったと詩人は感謝する。彼らは過酷な状況に置かれたことに対して主を非難するのではなく、救われたことを喜んでいる。

-詩篇124:1-3「都に上る歌。ダビデの詩。イスラエルよ、言え。『主が私たちの味方でなかったなら、主が私たちの味方でなかったなら、私たちに逆らう者が立った時、そのとき、私たちは生きながら、敵意の炎に呑み込まれていたであろう』」。

・詩人は捕囚地の預言者、第二イザヤの歌を想起している。彼は「たとい水の中を潜ろうと、火の中を歩こうとも私はそこにいる」との主の臨在を歌った。

-イザヤ43:1-2「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。

・NHKドキュメンタリー「開拓者たち」(2012年1月、BSドキュメント)は宮城県出身の千振満蒙開拓団の物語だ。豊かな地を目指して満州に渡った彼らは、日本の敗戦、ソ連軍の侵入、現地民からの銃撃の中で、命からがら逃れ、帰国し、栃木県那須で新しい開拓を始める。敗戦時、ソ連軍の砲火や現地民からの襲撃、飢餓の中で、多くの人々が死んでいった。30万人の開拓移民の内、生きて帰国できたのは10万人だった。助かった人々はひたすら逃げた人々であり、武器を持って開拓村を守ろうとした人々の多くは殺されるか、集団自決に追い込まれた。自分や人の力に信頼した者たちは死に、生かされていると必死に逃げた人々は生き残った。彼らもバビロンからの帰還民と同じ体験をしたのだ。

-詩篇124:4-5「(主が私たちの味方でなかったなら)、そのとき、大水が私たちを押し流し、激流が私たちを越えて行ったであろう。そのとき、私たちを越えて行ったであろう、驕り高ぶる大水が」。

 

2.主は私たちの味方である

 

・「主が私たちの味方でなかったなら、私たちはここにいなかった」、生き残った開拓民の人々は「主なる神」を知らなかったが、人間を超える存在を信じた。そのことによって彼らは死から免れた。集団自決の忌まわしい歴史は現在も継続している。年間3万人を超える人々の自殺は、社会に、自己に絶望した人々の集団自決だ。全ての幸いも災いも天地を造られた主から来て、その主は共におられることを私たちは伝える責務を持つ。

-哀歌3:31-33「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない」。

・「主は私たちの味方である」、そのことを確信した時に、主への賛美の歌が歌われる。

-詩篇124:6-7「主をたたえよ。主は私たちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、私たちの魂は逃れ出た。網は破られ、私たちは逃れ出た」。

・ここに奇跡がある。私たちは奇跡をミラクル(不思議な出来事)と理解するが実はそうではない。聖書の奇跡とはワンダー(驚嘆すべき出来事)なのだ。

-2012年1月8日説教から:「聖書で『奇跡』と訳されるギリシャ語には三つありますが、最も多く用いられるのが『デュナミス』という言葉です。英語のダイナミックの語源です。聖書の奇跡とはmiracle(不思議な出来事)ではなく、wonder(驚嘆すべき出来事)なのです。不思議な出来事が起きて驚くのではなく、神が起こして下さった御業の驚異を賛美するのが奇跡です。Miracleに相当するセメイオン(しるし)やテラス(超常現象)は多くの場合、人を欺き惑わすもの、警戒すべきものとして否定的に使われます(ヨハネ4:48「あなたがたは、しるし(セメイオン)と奇跡(テラス)とを見ない限り、決して信じないだろう」)」。

・全ての災いも幸いも主から来る。主は天地を創造し、保持される。この摂理の信仰を持つ限り、人は絶望することはない。出口の見えない苦難の中でも救いを待つことが出来る。やがて時の経過と共に光が見えてくる。

-詩篇124:8「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」。

・都詣での歌121編も同じ主題を歌う。「私たちの助けは天地を造られた主から来る」と。

-詩篇121:1-2「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから」。

 

3.詩篇124編の黙想~肉に過ぎない人に頼るな

 

・大国に挟まれたイスラエルは常に周辺国の軍事力に翻弄されてきた。エルサレムを包囲したアッシリア軍の武将ラブ・シャケは、「主に頼る」として降伏を拒否したヒゼキヤ王を嘲笑した。

-イザヤ36:13-20「ラブ・シャケは立ってユダの言葉で大声で呼ばわり、こう言い放った。『大王、アッシリアの王の言葉を聞け。王はこう言われる。ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちを救い出すことはできない。ヒゼキヤは、お前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない・・・ヒゼキヤが、主は我々を救い出してくださると言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか・・・これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか』」。

・そのイスラエルは神に頼ると言いながら、実はエジプトの武力によってアッシリアから逃れようとした。それも空しいとイザヤは語る「エジプト人は人であって、神ではないのだから」。

-イザヤ31:3「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」。

・歴史の中でイスラエルは揺れ動きながらも、預言者に励まされて、主の助けに身を委ねて来た。

-詩篇56:10-12「神を呼べば、敵は必ず退き、神は私の味方だと私は悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間が私に何をなしえましょう」。

・人間は肉に過ぎず、朽ち果てていく存在である。そのような人間に何が出来ようかと詩人は言い切る。

-詩篇78:39「神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」。

・私たちはやがて消え去る人間を畏れる必要はない。君侯も王も死ぬのだ。その死を超えて存在される方にこそ頼ろうと詩人は言う。

-詩篇118:5-9「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えて私を解き放たれた。主は私の味方、私は誰を恐れよう。人間が私に何をなしえよう。主は私の味方、助けとなって、私を憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう」。

・長い目で見れば、勝利をもたらすものは軍事力ではない。イスラエルを脅かしたアッシリアやバビロニアという強大国も滅んだではないか。

-詩篇33:16-19「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる」。

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