江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年4月28日祈祷会(詩編99篇、主は聖なる方)

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1.ケルビムの上に御坐を置かれる主

 

・詩編99編は「王の賛歌」であり、捕囚後に再建された神殿で歌われたものであろう。本詩において、「主は聖なる方」という言葉が繰り返されている(3節、5節、9節)。

-詩編99:1-3「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方」

・ケルビムとは神殿におかれた契約の箱(箱の中にはモーセに与えられた十戒を記した石の板が納められていた)を護るスフィンクス(聖獣)である。ヒゼキヤ王も降伏を求めるアッシリアの手紙を読んで、ケルビムに守られた主に祈る。

-列王記下19:14-15「ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、主の前で祈った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です』」。

・詩人は「公正と正義の神」ヤハウェに祈る。

-詩編99:4-5「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め、ヤコブに対する裁きと恵みの御業を、御自ら、成し遂げられる。我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方」。

・「主が聖なる方であるから、あなたたちも聖であれ」と聖書は繰り返す。「聖である」とは、聖別されたという意味であろう。

-レビ記20:26「あなたたちは私のものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。私はあなたたちを私のものとするため諸国の民から区別したのである」。

 

2.聖なる主が人の願いに耳を傾けられる。

 

・主は聖なる方であり、超越者である。しかし天に鎮座する方ではなく、人が求めればそれに応えてくださる方だ。詩人は主に導かれてエジプトからの解放を行ったモーセやアロン、主に導かれてサウルやダビデに油を注いだサムエルの事柄を思い起こしている。三人に共通するのは、民のためにとりなす祭司の働きを行ったことであった。

-詩編99:6-7「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた。神は雲の柱から語りかけ、彼らに掟と定めを賜り、彼らはそれを守った」。

・モーセは罪を犯した民のために執り成しの祈りを行う。「民を赦すために必要ならば私の命をお取り下さい」と祈った。祭司は民のために死ぬ覚悟がなければ務まらない。

-出エジプト記32:31-32「この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば。もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。

・パウロも、同胞が救われるためならば自分が「神から見捨てられても良い」と祈った。聖書の信仰は個人の信仰にとどまらず、共同体の救いを願う信仰であり、指導者の祈りは執り成しの祈りとなる。私たちもまた隣人の救いのための執り成しを祈る。

-ローマ9:2-3「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。

・「主が聖」であっても、私たち人間は「聖なる者」になることはできない。この限界を乗り越えるのは、私たちの思いを超えることを為される「聖なる主」への信仰だ。主は、一度は滅ぼされたイスラエルの民を生かし、バビロンから救済された。この「聖なる方」に私たちはより頼んで生きる。

-詩編99:8-9「我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神、彼らの咎には報いる神であった。我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方」。

 

3.聖なる者との出会い

 

・古代の祭司たちは、聖なる者との出会いを繰り返し証言する。モーセはホレブの山で、聖なる方、主と出会い、召命された。

-出エジプト記3:4-5「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると、神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから』」。

・イザヤも神殿礼拝の中で、主から直接の召しを受けている。

-イザヤ6:8「そのとき、私は主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか』。私は言った。『私がここにおります。私を遣わしてください』」。

・初代教会の使徒たちも復活のイエスとの出会いという聖なる体験をしている。聖なる者との出会いこそが、命を懸けた信仰を育成する。パウロは復活のイエスとの出会いにより、全てが変えられた。

-使徒22:6-8「旅を続けてダマスコに近づいた時のこと、真昼ごろ、突然、天から強い光が私の周りを照らしました。私は地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました」。

・ユダヤ人たちは「自分たちは神の聖を受けた」者として誇り、異邦人たちを「無割礼者」として差別していくようになる。ペテロがローマ人コルネリウスに洗礼を授けた時、エルサレム教会の人たちはペテロを「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と非難する(使徒言行録11:1-3)。「私たちが聖なる」存在ではなく、「聖なる方は神お一人である」ことを忘れてはいけない。

-マルコ10:17-18「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』。イエスは言われた。『なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない』」。

 

4.参考資料 教皇フランシスコ説教「聖なる教会とは何か」(2013.10.2)

 

・「信条」の中で、「私は唯一の聖なる教会を信じます」と唱えます。教会が聖なるものであるということは、初期キリスト者の意識の中に初めから存在した特徴でした。彼らは自分たちのことをただ「聖なる者たち」と呼びました。彼らは、教会を聖なるものとするのは神と聖霊の働きだということを確信していたからです。教会はどのような意味で聖なるものなのでしょうか。

・歴史的な教会には、長い時代の歩みの中で、多くの困難と問題と暗闇の時があったことを、私たちは知っています。人間、それも罪人から成る教会が、どのようにして聖なるものとなりうるのでしょうか。皆、罪人です。このような教会がどのようにして聖なるものとなりうるのでしょうか。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったのは、教会を清めて聖なるものとするためでした」(エフェソ5・25-26)。

・キリストは教会を愛し、十字架上でご自分をすべて与えました。教会は私たちの功績によって聖なるものなのではありません。教会が聖なるものであるのは、神が教会を聖なるものとするからです。私たちは罪人の教会です。そしてこの罪人である私たちが、神によって造り変えられ、新たにされ、聖なるものとしていただくように招かれているのです」。

・主が望まれるのは、まさにあなたが主にこう言うことなのです。「主よ。私は自分の罪をもちながら、ここにおります」。皆様の中に、罪のない人が何人いるでしょうか。一人もいません。私たちの中に一人もいません。私たちは皆、罪を犯しています。けれども主は、私たちが次のように言うのを聞きたいと望みます。「私をおゆるしください。私が道を歩めるようにお助けください。私の心を造り変えてください」。

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