1.民族の歴史を通して見た神の働き
・詩編68篇は荒野時代から現在に至るまで、イスラエルを守り、支えて下さった神の業を回顧し、やがて全ての民がシオンの丘に集う日の希望を歌う。68篇は、出エジプトの荒野において共に旅をされた神(契約の箱)の出立の祈りから始まり(民数記10:35)、荒野で敵から守り、導かれる神を讃美する。
-詩編68:2-5「神は立ち上がり、敵を散らされる。神を憎む者は御前から逃げ去る・・・神に従う人は誇らかに喜び祝い、御前に喜び祝って楽しむ。神に向かって歌え、御名をほめ歌え・・・その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め」。
・6節からは孤児や寡婦等の社会的弱者に対する神の憐れみの業が歌われる。
-詩篇68:6-7「神は聖なる宮にいます。孤児の父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる」。
・8節からはデボラの歌(植民時代のカナン人との戦いの勝利の歌、士師記5:4-5)を通して、約束の地へ入植させて下さり、そこに住む者たちに勝つ力を与えて下さった神を賛美する。
-詩編68:8-15「神よ、あなたが民を導き出し、荒れ果てた地を行進されたとき、地は震え、天は雨を滴らせた、シナイにいます神の御前に・・・神よ、あなたは豊かに雨を賜り、あなたの衰えていた嗣業を固く立てて、あなたの民の群れをその地に住ませてくださった・・・主は約束をお与えになり、大勢の女たちが良い知らせを告げる『王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る』」
・16節以降はダビデが現地住民との戦いに勝ち、シオンの丘に聖所が立てられた歴史を背景にしている。カナンの神バアルはバシャンの山(ヘルモン山)に祭られたが、主はバシャンを退けられ、エルサレムの丘(シオン)に住まれる。
-詩編68:16-19「神々しい山、バシャンの山・・・なぜ、うかがうのか、神が愛して御自分の座と定められた山を、主が永遠にお住みになる所を。神の戦車は幾千、幾万、主はそのただ中にいます。シナイの神は聖所にいます。主よ、神よ、あなたは高い天に上り、人々をとりことし・・・背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる」。
・25節以下はそのシオン丘に立てられた神殿への「神の箱」の入場(サムエル記下6:1-19)を踏まえた賛歌であろう。
-詩編68:25-28「神よ、あなたの行進が見える。私の神、私の王は聖所に行進される。歌い手を先頭に、続いて楽を奏する者、乙女らの中には太鼓を打つ者。聖歌隊によって神をたたえよ、イスラエルの源からの主を。若いベニヤミンがそこで彼らを統率する。ユダの君侯らは彼らの指導者、ゼブルンの君侯ら、ナフタリの君侯らもいる」。
2.ユダヤ民族主義の中で
・後半はシオンに住まれる神の世界支配を歌う。諸国の民が貢物を携えてエルサレム神殿に拝謁する。エジプトやエチオピアも主の神殿に参るために集う。イスラエルもまた世界支配の夢を持った。
-詩編68:29-32「あなたの神は命じられる、あなたが力を帯びることを。神よ、力を振るってください、私たちのために行動を起こしてください。あなたの神殿からエルサレムの上に。あなたのもとに王たちは献げ物を携えて来ます。叱咤してください、葦の茂みに住む獣を、諸国の民を子牛のように伴う猛牛の一群を、銀の品々を踏みにじるものを。闘いを望む国々の民を散らしてください。エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは神に向かって手を伸べる」。
・しかし、現実のイスラエルは弱小民族であり、軍事的・政治的に他民族を支配することなく、逆に他民族に支配された歴史を持つ。この詩は弱小の民に苦難を耐え、絶望的な状況を克服する希望として語られたものであろう。この詩は諸国の民に共に讃美することを呼びかけて終わる。
-詩編68:33-36「地の王国よ、共に神に向かって歌い、主にほめ歌をうたえ。いにしえよりの高い天を駆って進む方に。神は御声を、力強い御声を発せられる。力を神に帰せよ。神の威光はイスラエルの上にあり、神の威力は雲の彼方にある。神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ」。
3.詩篇68編の黙想
・神に選ばれた民の歴史は、現実には、汚辱に満ちた罪と挫折の連続であった。それにも関らず、イスラエルの民は、自分たちの神こそ世界を支配される方であり、終わりの日には諸国の民がシオンに集うことを語り続けた。その支配は軍事的なものではなく、武器を捨てよ、民族を捨てよと命じられる神の声を聴いた。
-イザヤ2:2-5「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる・・・国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・イエスもまた「神による究極的な世界支配の到来」を信じられ、それを「神の国は来た」という言葉で表現された(マルコ1:15)。しかし人々が望んだのは政治的・軍事的な覇権国であり、イエスにその意思がないことを知ると、人々はイエスを十字架につけた。
-マタイ27:42-43「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『私は神の子だ』と言っていたのだから」。
・パウロが戦った割礼や律法主義もまたこのユダヤ民族主義から来る。パウロは神の前には「ユダヤ人もギリシア人もない」と言ったが、2000年後の今日でも人は民族からは解放されていない。
-ガラテヤ3:26-28「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・民族を超える人類の一致はこの世界では達成できない。ヨハネ黙示録は、終末には「神殿も民族も不要だ」と預言する。その日が来ることを私たちは待望する。
-ヨハネ黙示録21:22-24「私は都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る」。