江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年7月29日祈祷会(詩編61篇、地の果てからの祈り)

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1.絶望の中での救い

 

・詩編61篇の詩人は「地の果てからあなたを呼びます」(61:3)と祈る。「地の果て」、絶望の象徴的表現である。詩人は深い挫折の中で、自分が神から遠く見放されていると感じている。人は挫折して初めて、自分が無力の存在であることを知り、その時に初めて真剣に神を求める。そして求める者に神は応答される。高くそびえる岩山の上に導いて下さる。

-詩編61:2-3「神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。心が挫ける時、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、私を導いてください」。

・イエスが語られた放蕩息子の譬えで、息子が回心したのは、汚れた豚の餌まで食べざるを得ないところまで貶められた時だった。息子は絶望の中で父の家を回想し、救いを見出した。

-ルカ15:14-19「何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。“お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください”」と。』

・人は落ちるとこまで落ちないと神を求めない、そして求めない者には何も与えられない。しかし求める者に神は答えて下さる。詩人は歌う「あなたの幕屋に宿り、あなたの翼を避け所とします」。これまで自分を支えてきたものがすべて崩れ、存在の基盤を失った詩人が絶望の中で祈り始めた時、そこに神が共にいてくださることを感じた。

-詩編61:4-5「あなたは常に私の避けどころ、敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋に私はとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます」。

・詩人は続ける「神よ、あなたは民の祈りを聞き、御名を畏れる人の求めを聞かれる」。「誓願」、あるいは「満願」は、願いごとして、それがかなえられた時に、神殿に感謝の捧げ物をすることを指す。

-詩編61:6「神よ、あなたは必ず私の誓願を聞き取り、御名を畏れる人に継ぐべきものをお与えになります」。

・詩編61編では7-8節に唐突に「王への祈り」が出てくるが、これは後代の挿入であろう。詩編61編そのものは9節に続いていく。

-詩篇61:9「私は永遠にあなたの御名をほめ歌い、日ごとに満願の献げ物をささげます」。

 

2.王への祈りの挿入

・詩編61編7-8節には「王への祈り」が挿入されている。

-詩編61:7-8「王の日々になお日々を加え、その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき、慈しみとまことに守られますように」。

・月本昭男氏は「詩編の思想と信仰」の中で次のように述べる。

-月本昭男・詩編の思想と信仰「第二神殿時代のユダヤの民がダビデ王朝永続の約束に基づく王朝再興の願いを保持し続けたことはよく知られている、ダビデ王朝再興は、大国の支配下に置かれた民の政治的独立への願いの象徴でもあった。第二神殿時代、もともと個人の祈りとして編まれた詩篇が神殿に集う会衆の祈りとして共有され、民の詩篇として読み継がれる中で、その末尾に王への祝福が加えられたのであろう」。

・詩編の中にもダビデ王家の回復を願う89篇他がある。ダビデ王朝の回復こそが民が求めたものであろう。国を失うことは民族の喪失であり、その回復をダビデ王家の再興に託した気持が、やがてメシア(救世主)はダビデの子であるとの信仰、あるいは待望になっていく。イエスがエルサレムに入城された時、民はイエスを「ダビデの子にホサナ」と歓迎している。イエスの中にダビデ王家再興の期待を込めたのであろう。

-詩編89:50-52「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの始めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか。主よ、御心に留めてください、あなたの僕が辱めを受けていることを。強大な民を私が胸に耐えていることを。彼らは、主よ、あなたの敵であり、彼らは辱めるのです。彼らはあなたの油注がれた者を追って、辱めるのです」。

 

3.詩篇61編の黙想

 

・詩篇61編は、地の果てから祈る。「苦悩の中で神が見えなくなった心」が、その閉ざされた心が、祈りと共に溶かされ、神の臨在を知り、感謝の気持ちで満たされて行く。神殿に来て祈れば道は開けていく。放蕩息子のように絶望の中でもかつての父の家を思い越せば救いが生まれる。しかし現代の人びとは頼るべきところを持たない。どうすれば良いのだろうか。自殺防止活動を行うNPO法人ライフリンク代表の清水康之氏は、多くの女性が、コロナ禍の中で、頼るところもなく失望して自殺していると語る。教会はこのような人に向けての活動ができるのだろうか。

-清水康之氏「コロナ禍は、日本社会が、いや世界中の人が自分の死におびえた経験でもありました。『困っている人に手を差し伸べる』ではなくて、『手を差し伸べる』ことを通じて自分もまた助けられる社会にしていく。そういうお互いさまの社会が必要だという感覚が広がりつつあると思いますし、そうしないといけない。自殺のない社会とは、誰もがおびえて生きなくていい社会です」。

・イエスの復活を導いたものは、絶望の中でかつて助けてくれた神を想起するイエスの信仰であった。

―詩篇22:2-6「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は呼び求めても答えてくださらない。夜も黙ることをお許しにならない。だがあなたは聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。私たちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」。

・イエスの即位の王座はエルサレム郊外の十字架上であり、王冠は茨であった。それは期待されていたメシア像を超絶するものであり、弟子たちにさえ受け入れられなかった。その弟子たちが変えられたのはイエスの復活を通してである。詩編61篇の祈りはイエスの復活によってかなえられたと理解する。

-第一コリント15:3-5「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

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