1.悪魔のささやき
・詩篇36編には人の心を誘う「悪魔のささやき」が語られている。詩人は歌う「神に逆らう者に罪が語りかけるのが私の心の奥に聞こえる」と。「私の心の奥に聞こえる」、彼は自分にも悪魔のささやきがあることを認めている。
-詩篇36:2-3「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、私の心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない」。
・旧約聖書においては人格化された「悪魔」という概念はないが、旧約の人々も、悪や罪の根源に「人間には逆らい難い霊の力」が働いていると感じていた。武功をあげて人気の高いダビデを妬み、自己の王位を守るために、彼を殺そうとするサウルの心を、サムエル記は「悪霊が下り」と表現する。
-サムエル記上18:7-11「女たちは楽を奏し、歌い交わした『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った『ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか』。この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り・・・サウルは・・・ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした」。
・悪魔は人間の外にではなく、人間の心の中にあり、その弱さに働きかけると詩人は考えている。そして詩人は自分の内にも悪があることを見据えている。人間の心の中に善と悪が同居することは心理学でも認められている。フロイトは人間には生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)があり、このタナトスが内に向けば自己嫌悪や罪悪感をもたらし、外に向けば憎悪や殺意を生むと考えた。マタイ福音書にいう「良い麦と毒麦のたとえ」もそれを示している。
-マタイ13:24-26「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた』」。
・アウグステイヌスは「教会の中になぜ悪があるのか」という問いに対し、この毒麦のたとえを持ちだして答える。
-アウグステイヌス「神の国」より「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存している。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように。例え弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、自分たちの信仰をいっそう清め強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪を理解しなさい」。
2.神に依り頼む
・アウグステイヌスが言うように「私たちの中に毒麦と良い麦の双方がある」、私たちは善をも悪をも成しうる存在であることを知る時、邪悪なものへの一方的な断罪はできない。その中で私たちは救済者を賛美する。
-詩篇36:6-7「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる」。
・そして主に自分を委ねた時、平安が私たちを包む。「御翼の陰に人の子は休み、あなたにより養われる」と。
-詩篇36:8-9「あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す」。
・そして私たちは神からの光を受けて歩む光の子となる。
-詩篇36:10「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、私たちは光を見る」。
・どうすれば私たちは悪の誘惑に勝てるのか、主に依り頼むしかないと詩人は歌う。
-詩篇36:11「あなたを知る人の上に慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にありますように」。
・詩人も誘惑にあえば負けかねない自己を知るゆえに、「悪より救い出したまえ」と祈る。「神に逆らう者の手」、「驕る者の足」、心に迫る悪の誘惑からの救済を求める。
-詩篇36:12「神に逆らう者の手が私を追い立てることを許さず、驕る者の足が私に迫ることを許さないでください」。
・人の世には悪が栄え、義が衰えるという現実がある。だから悪魔は誘う「私を拝め、そうすればこの世の支配権をあげよう」と(マタイ4:9)。その誘惑に負けた者はすべて滅んだ。イエスもこの誘惑に勝たれた(マタイ4:10「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」)。詩人も悪は続かないと宣告する。
-詩篇36:13「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され、再び立ち上がることはない」。
・パウロは、あなたがたは光の子とされたのだから、光の中を歩めと勧める。
-エペソ5:8-10「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。なにが主に喜ばれるか吟味しなさい」。
3.鳩のように素直に、蛇のように賢くあれ
・悪の世にあって光の子として歩むためには「蛇の知恵」が必要である。イエスは「鳩のように素直に、蛇のように賢くなれ」と言われた。
-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。
・その教えを現実世界の中で展開したのが、キリスト教倫理学者ニーバーである。彼は「光の子の愚かさと闇の子の賢さ」を比較し、「デモクラシーには、蛇のような賢明さと、鳩のような柔和さとが必要である」と説く。
-R.ニーバー「光の子と闇の子」から
「闇の子ら(=ナチズム)にとっては、自己が絶対最高の基準であって、彼らはそれ以上の律法を認めない。それ故に闇の子らは悪なのであるが、自己本位な意欲の力を見抜いている故に彼らは賢い。光の子ら(=民主主義)は自分の意欲をも審判する高度の律法を認める故に正しいが、自我意欲の力を知らないから、何時も愚鈍である・・・光の子らが愚かだというのは・・・自分自身のうちに潜む、自己本位な意欲の力、すなわち階級本位の利益を欲求する力をもまた軽く見積もっているからである」。
「ナチズムが、自ら公言したような悪魔的狂暴を持っているという事を、デモクラシーの世界は信じなかったというただそれだけの理由で、デモクラシーの世界が危険に曝されたのではない。デモクラシー文明は己が社会の中に階級本位の利益を欲求する力がひそむ事を正しく認識しようとはしなかったのである・・・デモクラシー文明の保存には、蛇のような賢明さと、鳩のような柔和さとが必要である。光の子らは、闇の子らの狂暴のとりことなってはならないが、闇の子らの智慧で自らを武装しなくてはならない。光の子らは、人間社会に於ける自己本位の力を道徳的に是認してはならないが、事実、そういう力のひそんでいることは、よく知っていなくてはならない。光の子らは、社会の為に、個人的にも、団体的にも、自己本位の意欲を、欺いたり、当てをはずさせたり、利用したり、抑制したりすることが出来るように、闇の子らの智慧を具備する必要がある」。