1.迫害されている者の祈り
・詩編70篇は敵の攻撃にさらされた信仰者が神に救済を求める詩である。詩人には危難が迫っており、「すぐに来て下さい」と彼は祈る。
-詩編70:2「神よ、速やかに私を救い出し、主よ、私を助けてください」。
・その危難とは、「彼の命を狙う者」が、ここぞとばかりに彼を責め立てる危難である。詩人は彼を責め立てる者たちがその行為を恥じて退くように、祈り求めている。
-詩編70:3-4「私の命をねらう者が恥を受け、嘲られ、私を災いに遭わせようと望む者が侮られて退き、はやし立てる者が恥を受けて逃げ去りますように」。
・詩人が何故責められているかはわからない。この詩には短い表詞「記念に(レ・ハズキール)」が付いている。同じ「記念に」という表紙を持つ詩編38篇は重い病を負った信仰者の嘆きの歌で、内容的近似もあり、詩人は人から忌み嫌われる病気(例えばらい病)に罹って孤立しているのかもしれない。
-詩編38:12-13「疫病にかかった私を愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も遠く離れて立ちます。私の命をねらう者は罠を仕掛けます。私に災いを望む者は欺こう、破滅させようと決めて、一日中それを口にしています」。
・疫病(へブル語ネガア)は「撃たれる」の意味である。神によって撃たれた、疫病は神の罰と考えられていた。70篇の詩人は重い病に罹り、周りの者たちは彼を「神に呪われた者」として、辱めたのであろう。「神は正しい者を祝福し、悪人を罰する」という応報思想が、人生の幸不幸を説明する原理として普遍化されると、困窮し災厄に見舞われた者を、社会的に排除するようになる。イエスの時代も多くの病人が病の苦しみと共に、排斥の苦しみに会った。長血を患う女性も汚れた者として排斥されたが、イエスは彼女を温かく迎え入れられた。
-ルカ8:43-48「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった・・・イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』」。
2.小さき者の祈りを顧みられる主
・詩人は自分が苦難を味わった故に、他者の苦難を理解する。彼は「あなたを訪ね求める人が喜び祝い、御救いを愛する人が賛美できますように」と祈る。個人の苦しみがここで連帯され、「我らの苦しみからの救い」の祈りとなる。
-詩編70:5「あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が神をあがめよといつも歌いますように」。
・彼は主に救いを求めて祈る。主は貧しい者、苦しむ者を放置されない方だと信じるゆえである。
-詩編70:6「神よ、私は貧しく、身を屈めています。速やかに私を訪れてください。あなたは私の助け、私の逃れ場。主よ、遅れないでください」。
・聖書の神は小さき者を保護し、顧みられる。出エジプト記は、寄留者や寡婦や孤児の権利を擁護する。「もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」と語られる神を、人々は信じた。聖書の神は貧しき者、弱き者の側に立たれる。
-出エジプト記22:20-23「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる」。
・しかし、このような戒めを持っている社会においても排除は起こる。人間の罪の故である。しかし、「主は貧しい者、苦しむ者を放置されない」という信仰は聖書に一貫し、イエスも継承されている。イエスは「小さき者をつまずかせる行為は激しく罰せられる」と言われた。
-マルコ9:42「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。
・この詩編は伝統的に受難節に読まれてきた。70編6節は歌う「神よ、私は貧しく、身を屈めています。速やかに私を訪れてください。あなたは私の助け、私の逃れ場。主よ、遅れないでください」という言葉が、十字架につけられたイエスの苦難の祈りと通じるものがあるからだろう。
-マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
3.詩篇70編の黙想
・高橋三郎は詩編70編に顕著な「応報思想」の冷たさを、注解に記す。
-高橋三郎・エロヒーム歌集「イスラエルの民は、奴隷として苦しんだエジプトからの解放を信仰の原点とした。しかしこの民においても、困窮にあえぎ、病に打ちひしがれる者たちは保護されないばかりか、かえって忌避排斥され、二重苦を負わされていた。しかも苦しむ者たちに対するそうした仕打ちは、神信仰に基づく応報思想において正当化されたのである」。
-「神は正しい者を祝福し、悪人はこれを処罰せずにはおかないという応報の思想が、人生の幸不幸を説明する原理として普遍化されると、豊かさを享受するものは神に祝福された正しい人と判断され、逆に困窮に陥り、災難に見舞われたものは罪人として断罪される。こうして応報思想は、神の名の下に人の世の不条理を合理化し、社会の矛盾やゆがみを固定化することになる」。
・応報思想が形を変えて現代化されたものが自己責任論であろう。精神科医の和田秀樹はインタビューの中で「自己責任論」の冷たさを語る。
-2018.11.20朝日新聞より「厳しく冷たい日本の『自己責任社会』を映す例が、アルコールやギャンブルなどの依存症への偏見や、生活保護へのバッシングでしょう。酒もギャンブルは『意志が弱い人間がなるから自己責任だ』という論が、根強く残っています。酒を飲んでも、ギャンブルしても依存症にならない人がいる。失業しても生活保護に頼らない人がいる。全員ではなく「そうはならない人がいる」のだから、「なる人」は自分の責任だという論理があります。誰でも、人間関係につまずいてうつ病になる可能性がある。単身赴任でアルコール依存になることだってある。でも自分がそうなるかもしれない、という想像力を欠いた社会です」。
-「人間は自己愛を満たしたい生き物ですが、右肩上がりの時代が去った現在は日常の暮らしの豊かさで自己愛を感じにくい。そこで自分より「下」をたたくことでそれを満たし、自分とは関係ない、切り離した問題として考えている。自己責任論には「努力が足りない」という発想が伴います。昔のように「貧乏であること」自体をいじめるのではなく、今は『貧乏なのは努力が足りないから』と決めつける。私立の進学校に行って一流とされる大学に行き、エリートになった本人は、『自分が恵まれていた』とは考えません。逆に非エリートを、『努力しなかった本人の責任』と見下しがちです。自己責任という言葉が都合良く使われているのです」。
・応報思想の誤りに強く言及されたのが、イエスである。イエスの時代、盲目は罪の結果と人々が考えていたが、イエスはこれを強く否定された。ここに現代にも通じる救いがある。
-ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。