1.悪人の滅びを求める詩人
・詩編58篇の詩人は、自分の生きている世界を見た時に、地上の支配者たちが不正の心で暴虐を働き、それを正当化しているのを見て、「正義はあるのか、裁きはあるのか」と問い、神の正しい裁きを求めた。
-詩編58:2-3「お前たちは正しく語り、公平な裁きを行っているというのか、人の子らよ。いや、お前たちはこの地で、不正に満ちた心をもってふるまい、お前たちの手は不法を量り売りしている」。
・神に逆らう者たちは生まれつき汚れており、その暴虐や虚偽は蛇の毒のようだと詩人は彼らを呪う。彼らは「耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで」、苦しむ者たちの声に耳を傾けようとはしない。
-詩編58:4-6「神に逆らう者は、母の胎にあるときから汚らわしく、欺いて語る者は母の腹にあるときから迷いに陥っている。蛇の毒にも似た毒を持ち、耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで、蛇使いの声にも、巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない」。
・「神よ、彼らの歯を折り、きばを抜いて下さるように。彼らが水に流されるように流れ去り、ナメクジのように溶け、太陽の光を受けることのない流産の子のようになるように」と詩人は邪悪な者たちの滅びを激しく願う。
-詩編58:7-10「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が獅子の牙を折ってくださるように。彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て、ナメクジのように溶け、太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。鍋が柴の炎に焼けるよりも速く、生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」。
・権力者の圧迫の中で、神の御旨が分からないと嘆いていたこの信仰者は、彼らがこの地上から一掃されるようにと呪う。昔の日本人が藁人形を作って木に釘で打ち付けたのと同じ激しさだ。そして彼は言う「正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう」。
-詩編58:11「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう」。
・しかし、詩人は、「神は正しい方であり、全てを正される方だ。いつかはそれがわかる」のに、それを待てない自分を見出す。そして、「どんなに悪がはびこっていても、世界はこのままでは終わらない、正しく裁かれる神が厳然としておられる」ことに気づいて、詩人は筆を置く。
-詩編58:12「人は言う『神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる』」。
2.この詩をどのように理解するか
・現代の私たちは激しい詩人の呪詛についていけない。しかし詩人の述べるのは世の真実だ。この世では力の政治が歴史を作り上げ、貧しい人々から貪る支配者であふれている。詩篇82編も同じ告発を行う。
-詩篇82:2-4「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」。
・世は預言者がどのように言葉を尽くしても変わらない。イザヤは現実の王に絶望してメシアを求めた(エッサイの株=ダビデ王家の子孫からいつの日にか、メシアが生まれる)。
-イザヤ11:1-5「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる・・・彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」。
・エレミヤもまた現体制に絶望し、一旦清算する事を求めた。
-エレミヤ22:30「主はこう言われる『この人を、子供が生まれず、生涯、栄えることのない男として記録せよ。彼の子孫からは、だれ一人栄えてダビデの王座にすわり、ユダを治める者が出ないからである』」。
・本詩篇成立の背景には、民の上に立って「義と公正」を果たすべき指導者たちが、逆に暴虐を働き、民を抑圧する状況がある。指導者は常にそうであったとエゼキエルも告発する。
-エゼキエル34:1-5「主の言葉が私に臨んだ。『人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱い者を強めず、病める者をいやさず、傷ついた者を包んでやらなかった。また、追われた者を連れ戻さず、失われた者を探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった』」。
・しかしエゼキエルは絶望しない。主が物事を正しくしてくださることに、希望を置くからだ。
-エゼキエル34:11-15「主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。私は彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。私はイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。私が私の群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる」。
3.詩篇58編の黙想
・詩編58篇には、混迷する地上世界において、神の正義が貫かれているのを信じるかが問われている。私たちは神の摂理を信じ、正義の実現を熱望し、そのために働く。イエスが私たちにそう命じられたからだ。
-マタイ9:35-38「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」。
・多くのクリスチャンたちは、「この世は邪悪であり、正義は天上でしか実現されない」とあきらめている。しかしイエスはあきらめられなかった。イエスは言われる「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と。
-ルカ10:18「イエスは言われた。『私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない』」。
・イエスは詩篇58篇のような呪いはされなかった。イエスは「呪われよ、失せ去れ」という祈りしか出来ない人間のために、自らに呪いの叫びを負うて、命を捨てられた。人々からの裁きに耐え抜いて「正しい裁きをする方に一切を委ねられた」、この方イエスにおいて詩編58篇は克服されているではないだろうか。
-第一ペテロ2:22-24「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました・・・そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」。