1.御翼の陰に
・詩篇57篇には「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいた時」との前書きがある。サムエル記上24章にダビデの命を求めてサウル王が追跡してきた時、サウルがダビデの隠れていた洞窟に用足しに来て、ダビデは殺す機会があったのにそうしなかったという故事が記載されている。ダビデはサウル王が「主に油注がれた者」であるゆえに彼を殺さなかった。
-サムエル記上24:5-7「ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、 兵に言った『私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ』」。
・57篇は直接にはダビデの心境を歌ったものではない。しかしどこにも救いを見出せず、神以外に頼るものがなくなった状況は、洞窟にいたダビデの心境と同じであろう。
-詩編57:2「憐れんでください、神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたを避けどころとし、災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします」。
・「御翼の陰に」、雛が親鳥の翼の下に安全を求めるように、詩人も神の庇護を求めて神殿に駆け込んでいる。神殿の聖所には、主の契約の箱を守るようにケルビムが翼を広げて安置されていた。「御翼の陰に」とは、ケルビムに象徴される神の加護を求める表現である。当時、不当な裁きを受けたものは神殿で神の裁き(祭司による審判)を受けることができた。無実の罪で告発された詩人は裁判を求めて神殿に避難した。この事からこの詩篇の成立は第二神殿時代(紀元前3-4世紀)とされる。ダビデ時代には神殿はなかった。
-詩編57:3-4「いと高き神を呼びます、私のために何事も成し遂げてくださる神を。天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。私を踏みにじる者の嘲りから、私を救ってください」。
・敵の歯は槍のように、舌は剣のように鋭い。彼らは中傷と偽りの告訴で詩人を痛めつけている。
-詩編57:5「私の魂は獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように、舌は剣のように、鋭いのです」。
・詩人は罠をかけられ、危機の中にあるが、祈る中で、神が救って下さるという確信を与えられる。敵は詩人を告訴したが、そのことによって自らの墓穴を掘った。何故ならば神は正しく裁かれる方であるからだ。
-詩編57:7「私の魂は屈み込んでいました。彼らは私の足もとに網を仕掛け、私の前に落とし穴を掘りましたが、その中に落ち込んだのは彼ら自身でした」。
2.夜明けの光の中で
・詩人は夜を徹して祈り、朝を迎えた。朝の光の中で、詩人は神の救いを確信し、「私の心は定まりました」と告白する。詩人の祈りに神は応えて下さった。その確信を与えられ、彼は感謝する。
-詩編57:8-9「私は心を確かにします。神よ、私は心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます。目覚めよ、私の誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ。私は曙を呼び覚まそう」。
・苦難の中に閉じ込められた者にとって、必要なことは「静かに待つ」ことだ。「静かにして祈り、神の救いを待つ」。不要なことは騒ぎ立てることだ。ユダ王国は反アッシリア同盟に加わらなかった故に、シリア・北イスラエル連合軍に攻められた。イザヤはアハズ王に「静かにせよ」と言ったが、アハズは不安に駆られ、アッシリアの援助を頼む。ユダは一時的に救われるが、やがてアッシリアの隷属国に組み込まれていく。
-イザヤ7:3-12「主はイザヤに言われた『あなたは・・・アハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない』。主は更にアハズに向かって言われた『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に』。しかし、アハズは言った『私は求めない。主を試すようなことはしない』」。
・本詩は教会では復活節の中で読まれてきた。夜の闇は過ぎ去り、復活の朝が来た。どのような苦難も過ぎ去る。あるいは静かにしていれば、その苦難から脱出する細い道が見えて来る。そのことを知る者はあわてることなく、主に讃美を捧げる。
-詩編57:10-12「主よ、諸国の民の中で私はあなたに感謝し、国々の中でほめ歌をうたいます。あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います。神よ、天の上に高くいまし、栄光を全地に輝かせてください」。
・古代教会では復活主日の前日土曜日に、キリストの受難と死をしのび、復活徹夜祭が行われていたという。ルカ福音書の目を覚まして主人の帰りを待つ僕(ルカ12・35-40)のように、主キリストの帰りを目を覚まして待つ人は、キリストとともにその食卓に着くよう招かれる。この復活徹夜祭の中で、「洗礼式」が執り行われた。洗礼は、受難と死を通して復活したキリストの過越にあずかり、一人ひとりが古い自分に死んで、復活したキリストの新しいいのちに生まれる「過越」であり、一年のうち最も盛大にキリストの過越を記念するこの夜こそ、洗礼式のためにふさわしい時と考えられてきた。
3.夜明けの神々しさをどうとらえるか
・詩人は夜を徹して祈り、暁が夜の帳を打ち破り、闇の世界が光の世界へと転じる様を見た。その時、「祈りがかなえられた」と確信する。夜明けは神秘的であり、預言者たちも夜明けの中に神の息吹を感じた。
-イザヤ60:1-2「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。
・異邦人たちは光を与える太陽を神として拝んだ。この異邦の風習がイスラエルにも浸透し、イスラエルも太陽神崇拝の偶像礼拝に陥って行く。その罪によってイスラエルは滅ぼされたとエゼキエルは悟る。
-エゼキエル8:16-17「彼は私を主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。彼は私に言った。『人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした』」。
・私たち日本人が、日の出を「御来迎」として拝むのも、これに似ている。確かにそこには神々しさがある。しかし太陽もまた神の造られた被造物の一つに過ぎないことを銘記すべきであろう。
-創世記1:14-19「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、『良し』とされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である」。