1.罪の悔い改め
・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩である。人々は詩の内容から、ダビデ王の犯した罪とその悔い改めの祈りとしてこの詩を判断し、ふさわしい表題(ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時)を付けて唱和した。
-詩篇51:1-2「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時」。
・ダビデ王が部下ウリヤの妻バテシバに恋情を抱き、ウリヤを殺してバテシバを自分のものにした時、預言者ナタンが王の前に出て、一つの物語を語る(サムエル記下12:1-4「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」(要約)。それを聞いたダビデは叫ぶ「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ナタンは断言する「その男はあなただ」(12:7)。
-サムエル記下12:7-13「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか・・・ダビデはナタンに言った『私は主に罪を犯した』。ナタンはダビデに言った『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる』」。
・詩人は罪を告白し、赦しを神に乞う。彼は神に背き、罪を犯し、平安は彼から去った。罪は赦されなければ消えない。だから彼は「神の慈しみと憐れみによって、罪を洗い清めて下さるように」と祈る。
-詩篇51:3-4「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。
・罪とは具体的には、人に犯した罪である。ダビデはウリヤをだまし、その妻を横取りし、ウリヤを謀殺した。しかし、その罪は突き詰めると神に逆らう行為である。だから詩人は「神に背いた」、「神の前に罪を犯した」と告白する。そして「その罪が生まれ落ちた時からあった、原罪である」ことを告白する。
-詩篇51:5-8「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます」。
・罪は指摘されないとわからない。ダビデもナタンに告発されて初めて罪の現実に目を開かれた。その罪は自分の力では洗い流せない、だから神に罪を洗い流して下さるように祈る。ヒソプ(香り草)は病人や犠牲を清める時に用いられた。
-詩篇51:9-11「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」。
2.赦しと新生
・罪の清めとは単に処罰が赦されることではない。古き自己が葬られ、新たな自己に生かされることである。「私を変えてください。私自身が問題なのです」と詩人は叫ぶ。
-詩篇51:12-14「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」。
・人間は罪を犯し続ける。彼が再生するためには神の赦ししかない。「流血の災いから私を救い出してください」と詩人は叫ぶ。
-詩篇51:15-17「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」。
・罪の赦しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによってではない。私たちが捧げるべき生贄は「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる。
-詩篇51:18-19「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けたが、二次的な表題であり、内容的には「エルサレム神殿の再建」が祈られており、捕囚から帰還した時代の詩である。人々は神の都の再建こそ、民の回復を完成に導くと信じて祈る。
-詩篇51:20-21「 御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いて下さい。その時には正しい生贄も、焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、その時にはあなたの祭壇に雄牛が捧げられるでしょう」。
・人々は何故ダビデを敬うのか、それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、「王であるにも関わらず、その罪を認め、神の前に悔い改めたからだ」と高橋三郎は解説する。
-高橋三郎・エロヒーム歌集から「ダビデはイスラエル王国の創始者であり、その子孫からメシアが出ることを人々は待ち望んでいた。通常であれば、王の生涯を栄光のベールに包むであろう・・・しかし、イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出しうると考えた」。
3.後代の人びとはこの詩篇をどう読んだか
・マタイはイエス・キリストの系図の中にバテシバの名前を入れる「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と。単純に「ダビデはソロモンの父」と書けばよいのに、何故「ウリヤの妻によって」と記すのか。それはキリストの系図もまた、罪に汚れていたことを示すためである。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためである。
-マタイ1:1-16「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。・・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」。
・イエスは、「罪びとの私をゆるして下さい」と祈った徴税人の赦しを宣言されている。罪を認めることこそ救いの一歩である。
-ルカ18:13「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った『神様、罪人の私を憐れんでください』。 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・人々がこれをダビデの悔い改めの祈りとして親しんできた歴史は重い。米国のビル・クリントン大統領が不倫疑惑を責められ、告白して悔い改めた時も、この詩篇51編を引用している。クリントンは、ダビデの罪の告白に自分と重ね合わせていた。
-1998年9月11日ホワイトハウス朝食祈祷会、クリントン「今、私は悲嘆にくれるよりも、許しを請うべきだと思います。そして少なくとも、そのためには二つのことが必要なのです。第一は、心底から悔い改めることです。それは、私自身の在り方を変え、犯した過ちを正そうという強い覚悟です。そして、私は悔い改めました。第二は、聖書が言う「打ち砕かれた魂」(詩篇51:19)です。自分が願うような新しい存在になるためには、どうしても神の助けが必要だと認めることです。そして、その願いに応えて赦してくださろうという、神の御心です。それはまた、私が傲慢さや怒りを捨てることでもあります。奢った態度や怒りは裁きを曇らせ、人々に私と同じような行為をする口実を与えるか、あるいは一層の批判と誹謗をまねくでしょうから」。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのか。共に罪を犯す。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみ、その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができる。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとする。「罪を犯した」と認めることが出来ないため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されない。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きである。「私は罪を犯した」と悔改めた時、神の祝福が始まる。