江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年2月11日祈祷会(詩編39編、死の床からの祈り)

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  • 人生ははかなく空しい

 

・詩篇39編は病者の祈りである。詩人は「衰え果て」、「あとどれくらい生きられるのか」と模索している。彼は重い病に苦しみ、死の床にある。最初は自分の苦しみを人に言うまいとした。口を開けば、主をののしりかねないと懸念したからだ。

-詩篇39:2「私は言いました『私の道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。私の口に轡をはめておこう』」。

・しかし苦難の中での沈黙はあまりにも苦しい。口を閉ざし続けることによって、苦しみは募り、炎のように燃え上がった。

-詩篇39:3「私は口を閉ざして沈黙し、あまりに黙していたので苦しみがつのり、心は内に熱し、呻いて火と燃えた。私は舌を動かして話し始めた」。

・出てきたのは「あとどれくらい生きられるのか」を主に問う言葉だった。詩人は残された命が少ないことを知りつつも、それを受容できない。人は死ぬとわかっていても、自分の死は受け入れることができない。

-詩篇39:5「教えてください、主よ、私の行く末を、私の生涯はどれ程のものか、いかに私がはかないものか、悟るように」

・ZARDの坂井泉水さんが2007年2月に慶応病院で事故死した。彼女は子宮癌の末期で肺に転移し、抗癌剤治療中だった。かつて彼女は「いつかは」という曲を書いた。その中で「あとどれくらい生きられるのか」と生の空しさを歌う。

-ZARD・いつかは「静かな夕暮れに 残された日々 夢を見させて どんなに時間を 縛ってもほどける あとどれくらい 生きられるのか いつかは情熱も 記憶の底へ 愛し合う二人も セピアに変わる」

・詩人は人生の空しさを神に訴える。与えられた生涯は「わずか手の幅ほどのつかのまのもの」、「立っている人もやがて倒れる」、「積み上げた財産も名声も知恵も消え去る」、人生とは何なのかと詩人は訴える。

-詩篇39:6-7「御覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」。

・死を前にすれば、だれもが人生の空しさを思わざるを得ない。心理学者の村田久行氏は死を前に人間は三つのスピリチュアル・ペインを感じるという。将来がないことによる時間的な痛み、他者との交わりが絶たれることによる関係的な痛み、自分が何もできなくなる自立的な痛みの三つだ。この痛みを人はどのように解決していけば良いのだろうか。列王記に出るユダ王ヒゼキヤは泣いて祈った。誰でも死を前にすれば心が震える。

-列王記下20:1-3「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」と言った。

ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。「ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」。

 

2.空しさの中で神を呼び求める

 

・詩人は空しさの中で神を求める「創造主であるあなただけが、この人生に意味を与えることができる」と。

-詩篇39:8「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。私はあなたを待ち望みます」。

・詩人は自分の病は罪の結果と受け止めている。だから「さいなむ御手を放して下さい」、「沈黙しないで下さい」と祈る。

-詩篇39:11-12「私をさいなむその御手を放してください。御手に撃たれて私は衰え果てました。あなたに罪を責められ、懲らしめられて、人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい」。

・詩人は沈黙する神に祈る。彼は自分がやがてこの地上を去り、この世から失われるが、最後の旅路を主にあって輝きたいと願う。そのためにもこの病から来る痛みを取り去り、平安のうちに死なせて下さいと彼は祈る。

-詩篇39:13-14「主よ、私の祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けて下さい。私の涙に沈黙していないで下さい。私は御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人。あなたの目を私からそらせ、立ち直らせて下さい、私が去り、失われる前に」。

 

3.人は死を超える信仰を持てるのだろうか

 

・鈴木正久は日本基督教団西片町教会の牧師で、総会議長だったが、肝臓ガンのために1969年に56歳の生涯を終えて天に召された。鈴木牧師が最後の病床から教会員に残したテープが残されている。その中で鈴木牧師は「それでも死が怖かった」と正直に語る。

-鈴木正久・病床日記から「この病院に入院した時、私には、「明日」というのは、治って、もう一度、今までの働きを続けることでした。そのことを前にして、明るい、命に満たされた「今日」というものが感ぜられたわけです。けれども娘の怜子からある日、「実はお父さん、もう手の尽くしようがない」ということを聞いた時には、何かそれは一つのショックのようでした。今まで考えていた「明日」がなくなってしまったわけです。「明日」がないと「今日」というものがなくなります。そして急に暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何か黒いものがこうのしかかってくるようなというのか、そういう気持ちでした。その時祈ったわけです。今までそういうことは余りなかったのですけれど、ただ「天の父よ」というだけではなく、子どもの時自分の父親を呼んだように「天のお父さん、お父さん」、何回もそういうふうに言ってみたりもしました。それから、「キリストよ、聖霊よ、どうか私の魂に力を与えてください。そうして私の心に平安を与えてください」、そうしたらやがて眠れました」。

・鈴木牧師の告白は続く「明け方までかなりよく静かに眠りました。そして目が覚めたらば不思議な力が心の中に与えられていました。夕方怜子にピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれてほかの信徒に語りかけているのを聞きました。聖書というものがこんなに命にあふれた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じました。パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と、このように述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に輝かしい明日なのです。死をも越えて先に輝いているものである、その本当の明日というものがある時に、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」(鈴木正久著作集から、一部要約)。

・死は決して避けることのできない人間の危機であり、受容するしかない。その時、自我的な信仰は何の役にも立たないと心理学者は語る。

-2010年1月31日説教「クリスチャンの精神科医・赤星進氏は、信仰には“自我の業としての信仰”と“神

の業としての信仰”の二つがあるという。自我の業としての信仰とは、救われるために神を信じる信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、私たちは教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。なぜならば、自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていくからだ」。

・赤星氏はもう一つの信仰のあり方、「神の業としての信仰」を持てと勧める。

-2010年1月31日説教後半「神の業としての信仰とは赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼です。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができません。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていきます。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰です。イエスは言われました『あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである』。天の父は生きるために必要なものは与えてくださるから、だから生活の糧を得る心配や苦労から解放されなさい。あなた方は『ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる』。ルターは言います『信仰は人間的な幻想や夢幻ではない。信仰は私たちの中に置ける神の業であり、私たちを変えて新しく生まれさせる』」(マルティン・ルター「ロマ書への序言」)。

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