江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年12月2日祈祷会(詩編79篇、主よいつまで)

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1.国家滅亡の悲哀の中で

 

・本詩はバビロン捕囚から帰還し、荒廃したエルサレム神殿を目の当たりにした詩人が、「主よ、いつまで私たちを捨て置かれるのか」と嘆いた歌であると思われる。詩篇74編と内容的に近い。詩は「なぜ私たちを捨てられ、今も顧みられないのか」という嘆きから始まる。

-詩編79:1-2「神よ、異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました。あなたの僕らの死体を空の鳥の餌とし、あなたの慈しみに生きた人々の肉を地の獣らの餌としました」。

-詩篇74:1-3「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか・・・永遠の廃虚となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」。

・異国の民が聖なる都に侵略し、神殿は破壊され、都は瓦礫の山になってしまった。主の僕たちは惨殺され、その死肉を空の鳥や地の獣たちが食いあさった。近隣の民は「お前たちの神は無力で救う力はない」と嘲笑する。「主よ、いつまで放置されるのか、いつまであなたの憤りは続くのか」と詩人は神に訴える。

-詩編79:3-5「彼らは、エルサレムの周囲に、この人々の血を水のように流します。葬る者もありません。私たちは近隣の民に辱められ、周囲の民に嘲られ、そしられています。主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか」。

・人が神を認め、神を信じるのは、自然の営みや世界の出来事の背後に人知を超えて働く存在者の力と意思を感じる時である。それが感じられなくなった時、人の信仰は揺らぐ。2011年3月11日に起きた大震災では2万人の人が津波に巻き込まれて命を失くした。ケセン語訳聖書を著した医師の山浦玄嗣は大洪水時の経験を語る。

-(朝日新聞2011年5月16日夕刊から)。「3月11日午後2時46分、私が理事長の山浦医院の午後の診察が始まる時間でした。自宅のすぐ隣にある医院に入ると間もなく、大きな横揺れを感じました。揺れはいつまでも収まらず、船酔いみたいに吐き気がしてきた頃、ようやく静まりました。幸い自宅も医院も床上に浸水しただけで済みました。でも、津波でたくさんの友だちが死に、ふるさとは根こそぎ流された。黒い津波が押し寄せるのを見て、イエスが十字架で叫んだ『私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか』を思い出しました」。

・神を信じていても、裏切られ、悲哀の中に放置され、いくら叫んでも神は沈黙され、神を信じない傲慢な人々が勝ち誇り、侮り、嘲笑する時、その信仰は揺さぶられる。詩人はそのような状況の中で、「あなたが生きておられることを見せて下さい。この敵に報復して下さい」と祈る。

-詩編79:6-7「御怒りを注いでください、あなたを知ろうとしない異国の民の上に、あなたの御名を呼び求めない国々の上に。彼らはヤコブを食いものにし、その住みかを荒廃させました」。

・詩人は恨みだけを述べているのではない。8節以降にあるのは、自分たちの罪がこの災いをもたらしたとの罪の自覚と悔い改めだ。この詩の中には二つの信仰論理がある。一つはエルサレムの悲劇が神に真実であった民に一方的に起こったとする思いだ。自分たちは被害者だと思う時、加害者に対する怒りや報復が生まれてくる。他方、被害者も故なく被害に遭うのではなく、そこに自分たちの罪を見る時、悲劇の中に悔い改めの論理が出てくる。

-詩編79:8-9「どうか、私たちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください。私たちは弱り果てました。私たちの救いの神よ、私たちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください」。

 

2.罪の悔い改めと報復の祈りと

 

・詩人は神の正義、敵に対する報復を求める。正義とは悪に対する懲らしめだ。自分たちが撃たれるのはやむをえないが、自分たちの不幸に便乗して利をあさる諸国民も懲らしめられなければあなたの正義は完結されないのではないかと詩人は神に叫ぶ(エルサレム陥落の折、エドム・モアブ・アンモン等の周辺部族も略奪に参加した)。

-詩編79:10-12「どうして異国の民に言わせてよいでしょうか『彼らの神はどこにいる』と。あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を、異国の民の中で、私たちが目の前に見ることができますように・・・主よ、近隣の民のふところに、あなたを辱めた彼らの辱めを、七倍にして返してください」。

・イスラエルの民は捕囚を通して自分たちの罪を認め、それを文書化して行った。捕囚時代に書かれた列王記は、「王たちの罪の歴史」を書き続ける。罪を認め、悔い改めた時、神は救済して下さる。現在、神が沈黙されていてもやがて救って下さる、裁きは救うためになされるとの信仰がここにある。

-詩編79:11-13「捕われ人の嘆きが御前に届きますように。御腕の力にふさわしく、死に定められている人々を、生き長らえさせてください・・・私たちはあなたの民、あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ、代々に、あなたの栄誉を語り伝えます」。

 

3.詩篇79編の黙想

 

・森有正は「体験の経験化」の必要性を訴える。どのような出来事も「体験」に留まる限り、過去の出来事でしかない。それが「経験」にまで昇華された時、その出来事は真理となっていく。日本人は国全体としては、「敗戦を経験化」しなかった。ここに民族の不幸がある森有正は語る。

-森有正エッセー集から「第2次大戦後の日本民主化の歩みは、本質的に緩徐な変貌があった歴史の発展ではなかった。平和も民主主義も、それを正当に定義すべき経験を欠いていた。また、第2次大戦における敗戦は決していわゆる本当の意味での敗戦としては経験されなかった。」

・白井聡も、敗戦を経験化しなかったことが今日の日本を駄目にしたと語る。

-白井聡「永続敗戦論」から「それは戦後日本のレジームの核心的本質であり、「敗戦の否認」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く、それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかな破綻に瀕している。1945年以来、われわれはずっと「敗戦」状態にある。「侮辱のなかに生きる」ことを拒絶せよ」。

・「体験を経験化しない」時、その悲しみは「救いに至る悲しみ」ではなく、「死に至る悲しみ」に留まるとパウロは語る。

-第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

・韓国のキリスト教信仰に中には「恨の神学」があると言われる。受難の民という視点から救済を求める。しかし「恨」は人々との連帯をもたらさない。被害者は同時に加害者であるとの視点がない限り、その苦難の訴えは聞かれないだろう。

-栗原貞子・ヒロシマというとき「〈ヒロシマ〉というとき、〈ああ ヒロシマ〉とやさしく答えてくれるだろうか。〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉、〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉・・・〈ヒロシマ〉といえば血と炎のこだまが 返って来るのだ。〈ヒロシマ〉といえば〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは返ってこない。アジアの国々の死者たちや無告の民がいっせいに犯されたものの怒りを噴き出すのだ。〈ヒロシマ〉といえば〈ああヒロシマ〉とやさしい答えが返って来るためには、私たちは私たちの汚れた手をきよめねばならない」。

・国際基督教大学の魯恩碩(ロウンソク)は語る「この世界は不条理と理不尽に満ちている。しかし、私たちには「なぜ、」と問う力がある」(「この理不尽な世界でなぜと問う」)。「なぜ」と問う、信仰が揺れる中で神を求めていく。その時、道が開けてくるのではないか。

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