1.自己の救済体験から
・本詩には「ダビデがアビメレクの前で狂気を装い、追放された時に」との前書きがある。ダビデはサウル王から命を狙われ、敵のペリシテ陣営に逃げ込んだが、ペリシテ王アビメレクに疑われた時、狂気を装って逃れた。
-サムエル記上21:11-16「ダビデは立ってその日のうちにサウルから逃れ、ガトの王アキシュのもとに来た。アキシュの家臣は言った「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです」。ダビデはこの言葉が心にかかり、ガトの王アキシュを大変恐れた。そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。アキシュは家臣に言った『見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。・・・この男を私の家に入れようというのか」。
・34編の詩人もかつて命の危機から救われた体験を持つゆえに、編集者がダビデになぞらえて前書きを書いたと思われる。
-詩編34:5「私は主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった」。
・詩人は「主は常に貧しい者を顧みてくださるから、共に主をあがめよう」と呼びかける。聖書において貧しさは罪ではなく、貧しき人は、信頼をもって主に身を寄せ、主を恐れ敬い、主を求める者として肯定される。
-詩編34:2「どのようなときも、私は主をたたえ、私の口は絶えることなく賛美を歌う。私の魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。私と共に主をたたえよ。一つになって御名をあがめよう」。
・イエスも「貧しき者は幸いだ」と言われた。
-ルカ6:20-21「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。
・詩人の讃美は彼自身の救済体験から来る。彼はかつて苦難の中で主に呼び求め、主はこれを聞いてくださった。
-詩編34:7-8「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」。
・「主の使いはその周りに陣を敷き」、出エジプトでの体験の想起がここにある。かつて先祖たちが叫び求めた時、主はその声を聞いてくださったように、今でも聞いてくださる。
-出エジプト記3:7「主は言われた『私は、エジプトにいる私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す』」。
・「同じ救済体験を私もした。だから主の憐れみの深さを味わい見よ」と詩人は呼びかける。信仰は知識の集積では生まれない。各人が主との出会いと言う内面体験をした時に、そこに信仰が生まれる。
-詩編34:9-11「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え・・・若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない」。
2.主の救済とは何か
・詩人は自分の経験に学べと若い人たちに言う。「悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めよ」と。
-詩編34:12-15「子らよ、私に聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」。
・ペテロは報復を戒め、「悪を持って悪に報いるな」と教え、その根拠として詩編34:13-17を引用した。
-第一ペテロ3:9-12「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。『命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる』」。
・「主は助けを求める者の声を聞いてくださる。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」、これが本詩の中心語句であり、信仰者の希望の源である。苦難こそが神との出会いの橋渡しとなる。
-詩編34:18「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。
・しかしその救済とは、必ずしも私たちが求める形での救済ではないかもしれない。詩人は歌う「主に従う人には災いが重なる」、悪の世を生きるのであれば、世からの迫害、排除は当然であろう。それを驚くことはない。
-詩編34:20「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」。
・パウロは病からの救済を求めたが、イエスは彼に「私の恵みはあなたに十分である」と言われた。病が癒されないことが、苦しみが続くことが祝福である場合もあるのだ。そのとげが私たちを信仰者であり続けさせる。
-第二コリント12:7「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように・・・サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
・都合の良い時には「アーメン」と言い、都合の悪い時には神を拒否していくのであれば、ご利益信仰、偶像礼拝だ。イエスはそうなさらなかった。都合の悪い時も神により頼んでいく。その時、私たちは復活という驚くべき体験をする。
-ルカ22:42「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。
3.「貧しき者は幸いである」というイエスの言葉についての黙想
・ルカ福音書6章(平野の説教)においては「貧しい人々は幸いである」と言われている。しかし並行のマタイ福音書5章(山上の説教)においては、「心の貧しい人々は幸いである」として、心が付加されている。同じ様にルカ「飢えている人々」が、マタイにおいては「義に飢え渇くもの」とされる。更にルカ「泣く者」が、マタイでは「悲しむ者」となっている。ルカが原意に近く、マタイは大幅に編集していると言うのが通説である。仮にそうだとすれば何故、ルカは伝承を部分修正に留め、マタイはそれを大幅に修正したのだろうか。
-マタイ5:1-4「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる』」。
・イエスの言葉は「貧しい者、飢えている者、泣いている者は幸いである」と言うのが原意に近い。これをマタイのように緩和せずに、またルカのように強調せずに聞いた時、何が求められているのか。福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはパリサイ人やサドカイ人等の支配階級だった。満足している者は神を求めず、満たされていない者は求める。求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、今、満たされていないもの(貧しい者、飢えている者、泣いている者)が祝福されるのは当然ではないか。
・ルカとマタイの時代は、イエスの宣教から50年が過ぎ、第一世代の弟子たちのように、全てを捨ててイエスに従うのではなく、定住して生活している。経済的にも安定し、明日のパンがない状況ではない。富が彼らの信仰を揺るがし始めている。このような中で、ルカは貧しさを強調するために四つの祝福に四つの災い(富んでいるものは災い等)を付加し、マタイは時代の変化に応じた修正(定住する教会の人々に放浪の伝道生活を求めることは出来ないため、心の貧しさに変えた)したと思える。今、世界の1割が飢えている中で、食べ物に飽きている豊かな国の住人である私たちは、ある意味でルカやマタイの教会以上に富が信仰を揺るがしている。マタイとルカが何故、伝えられた伝承を変えたのかを、我々の問題として捉える必要がある。