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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年2月4日祈祷会(詩編38編、病苦の中で神を求める祈り)

投稿日:2021年2月3日 更新日:

 

 

  • 病苦に喘ぐ詩人の嘆き

 

・本詩の作者は重い疫病(おそらくはらい病)に冒されている。彼は肉にも骨にも安らぎがなく、傷は膿んで悪臭を放ち、腰はただれに覆われていると嘆く。「あなたの矢は私を射抜き、御手は私を押さえつけています」、彼は病を神からの刑罰だと感じている。

-詩編38:2-5「主よ、怒って私を責めないでください。憤って懲らしめないでください。あなたの矢は私を射抜き、御手は私を押さえつけています。私の肉にはまともなところもありません、あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません、私が過ちを犯したからです。私の罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています」。

・らい病、ヘブル語ツァラアトは「汚れ」、「しみ」を意味するが、同時に宗教的な「穢れ」をも意味した。それは罪を犯したために神に呪われた病として嫌われ、病者は隔離され、日常生活から排除された。

-レビ記13:45-46「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない・・・その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。

・日本でもらい病患者は「らい予防法」により強制隔離され、現在でも各地に国立ハンセン病療養所が残る。「らい予防法」が廃止されたのは1996年であり,患者は病以上に社会的な排除に悩まされた。その反省の下で、日本の「感染症対策法」はその前文で、「過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かす」としるす。それにもかかわらず、今回のコロナ対策法で「罰則」が導入された。九州工業大学・佐藤直樹は強く反対する。

-佐藤直樹「営業を続ける事業者や入院を拒否する人が犯罪者扱いされ、深刻な差別にさらされるからです。日本社会には、他人に迷惑をかけてはいけないという『世間のルール』があり、それに従え、という同調圧力がとても強いのです。そもそも病気はケガレであり、患者は迷惑な存在だとみなされてきました。そのため、コロナ禍では『自粛警察』による嫌がらせが横行しました。法律で罰則が定められれば、こうした行いを正当化し、差別や排除を一層助長することになる。警察や保健所、自治体への通報も殺到するでしょう。人々が分断され、不信が渦巻く密告社会をつくってはいけません」(2021.2.3朝日新聞)。

・詩人は絶望の中で喘ぐような祈りを行う。

-詩編38:6-9「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます。私が愚かな行いをしたからです。私は身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます。腰はただれに覆われています。私の肉にはまともなところもありません。もう立てないほど打ち砕かれ、心は呻き、うなり声をあげるだけです」。

・患者は近親者からも見放され、孤独の中で苦しめられる。神からも人からも見放される、これ以上の苦痛はない。

-詩編38:10-12「私の主よ、私の願いはすべて御前にあり、嘆きもあなたには隠されていません。心は動転し、力は私を見捨て、目の光もまた、去りました。疫病にかかった私を、愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も、遠く離れて立ちます」。

・彼ができることはただ沈黙を守り、周りの声に耳をふさぐだけだ。

-詩編38:14-15「私の耳は聞こえないかのように、聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。私は聞くことのできない者、口に抗議する力もない者となりました」。

 

2.それでも絶望しない

 

・詩人はひたすらに主に祈ることしかできない。彼は人に絶望するが神には絶望していない。しかし救いは見えない。

-詩編38:16-18「主よ、私はなお、あなたを待ち望みます。私の主よ、私の神よ、御自身で私に答えてください。私は願いました・・・私は今や、倒れそうになっています」。

・詩人は最後まで「主を賛美する」ことも、「主に信仰を告白する」こともしない。彼の苦悩はそれほど深い。

-詩編38:22-23「主よ、私を見捨てないでください。私の神よ、遠く離れないでください。私の救い、私の主よ、すぐに私を助けてください」。

・月本昭男は、詩編38編注解の中で述べる「社会全体の非寛容をなくさない限り、問題は解決しない」。

-「災いの神義論が社会に広く受け入れられていた病む者を忌避し、その破滅をもくろむ『おびただしい敵』とはそうした社会自体の象徴的表現であった。しかし、こうした祈りは、病む者の前に敵として立ち現れる社会の様相を露にしながらも、そのような社会を醸成してきた因果応報思想の呪縛を断ち切ることはなかった。祈り手自身が、またこの種の祈りを伝えた祭司たちが、応報観念から自由ではありえなかったのである」。

・イエスもこの苦しみを体験された。彼は人に捨てられ、神に見捨てられて、十字架で死んでいかれた。イエスは十字架上で、自分を捨てられた神の名を呼びながら死んでいかれた。

-マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。

・イエスが私たちの苦しみを知っておられるゆえに、イエスは私たちを救うことがお出来になる。彼はらい病を患う人を憐れみ、彼に触れ、そして癒された。「らい病者にふれてはいけない」という戒めを愛のゆえに破られた。

-マルコ1:40-42「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」。

 

3.応報思想からの解放を求めて

 

・聖書の中で、応報思想が最も強く表れるのは、「申命記」である。

-申命記28:1-21「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私が命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される・・・しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる・・・主は、疫病をあなたにまといつかせ、あなたが得ようと入って行く土地であなたを絶やされる」。

・それに強く反発する書がヨブ記である。

-ヨブ記9:20-22「私が正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もう私は知らない。生きていたくない。だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と」。

・病や障害を「罪」ゆえの「呪い」とみなす応報思想は、重い病や障害を持つ人を心理的にも社会的にも苦しめてきた。今日においても応報思想は根強く残る。しかし、イエスは、病や障害は罪のせいではないとして、その因果関係を強く否定された。

-ヨハネ9:1-3「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。

・「神の業がこの人に現れるために」、26歳でらい病に罹り、37歳で死んでいった歌人の明石海人はらい病を「天刑病」であると初めは思ったが、最後には「天啓病」として受け入れていった。

-明石海人・歌集白描から「癩は天刑である。加はる笞の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるいは呷吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた・・・齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。癩はまた天啓でもあった」。

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