1.仮庵祭の時の祝祭歌
・詩編81篇は仮庵の祭で詠われた祝祭歌であろうと言われる。毎年7月の新月から満月にかけて祝われる仮庵祭は、本来は収穫祭であったが、出エジプトを経験した民は、祭りを荒野の旅(仮庵生活)を思い起こす祭りに変えて行く。
-詩編81:2-4「私たちの力の神に向かって喜び歌い、ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし、琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、私たちの祭りの日に」。
・イスラエルにおいて祭りは単なる祝い事ではなく、それは主の恵みを想起する時であり、主に従うことを改めて誓約する時であった。
-詩編81:5-6a「これはイスラエルに対する掟、ヤコブの神が命じられたこと。エジプトの地を攻められた時、ヨセフに授けられた定め」。
・イスラエルの信仰の原点は出エジプトの出来事である。イスラエルはエジプトでは奴隷として重い苦役を担い、苦しみ、救いの叫びを主に向かって挙げた。主はその叫びを聞き、彼らの「肩の重荷を取り除き、かごを手から取り去って下さった」。約束の地に向かう荒野においても主は稲妻で民を導き、食べ物と水を与えられた。
-詩編81:6b-8「私は思いがけない言葉を聞くことになった『私が、彼の肩の重荷を除き、籠を手から取り去る。私は苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した』」。
・主はイスラエルと契約を結ばれたが、教えの中核は「私以外を神として拝むな」という偶像礼拝の禁止であった。
-詩編81:9-11「私の民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、私に聞き従え。あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。私が、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、私はそれを満たそう」。
・偶像礼拝こそ、人間の罪の原点であり、それは「神を神としない」、「自分が神になろうとする」人間の本源的な欲望である。アダムの犯した罪も、「神になりたい」という欲望の結果であった。その結果人間世界に罪と死が始まったと創世記は記す。
-創世記3:4-6「蛇は女に言った『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。
2.イスラエルが私の道を歩む者であれば
・民はシナイの山で、「私たちは従います」と誓約した。しかし民は約束の地に入ると主を忘れ、自分たちの楽しみを追い求め、偶像の神を拝した。人間は豊かになると神を忘れ、苦難にあえば再び求めることを聖書記者は指摘する。だからこそ、苦難は必要なのである。
-申命記31:20-21「私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れる時、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、私を侮って私の契約を破るであろう。そして多くの災いと苦難に襲われる時、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。私は、私が誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである」。
・祭りでは、民の背信の歴史が祭司により朗読される。イスラエルは頑なであった、それゆえ主は私たちの国を滅ぼされたとの理解がある。この詩編が書かれたのは第二神殿時代、捕囚からの帰還後であろう。
-詩編81:12-13「しかし、私の民は私の声を聞かず、イスラエルは私を求めなかった。私は頑な心の彼らを突き放し、思いのままに歩かせた」。
・神の裁きは、「人を思いのままに歩ませる」(81:13)という形で為される。ちょうど、親が聞き分けのない子を思いのままに振舞わせ、彼らが苦難に陥った時に初めて助けの手を伸ばすように、である。パウロもまた人間に対する裁きが「神の放置」という形でなされると理解した。その結果は滅びである。
-ローマ1:21-28「(彼らは)神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました・・・彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。
・祭司は民に「主に従うか、主に背くか」の決断を迫る。「私の民が私に聞き従い、イスラエルが私の道に歩む者であったなら」という神の言葉を聞けと祭司は聴衆に迫る。
-詩編81:14-17「『私の民が私に聞き従い、イスラエルが私の道に歩む者であったなら、私はたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに』。主を憎む者が主に屈服し、この運命が永劫に続くように。主は民を最良の小麦で養ってくださる『私は岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう』」。
3.詩篇81編の黙想
・イスラエルの三大祝祭(過ぎ越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)はいずれも農業の祭りであった。過越し祭は小羊の誕生を祝う春の時であり、七週の祭りは小麦の収穫祭、仮庵の祭りは秋の大麦収穫祭であった。それが出エジプトの記憶として祭典化、歴史化される。過ぎ越しの祭りはエジプトからの解放を想起する祭りとなり、仮庵際は荒野の旅を想起する祭りとなって行く。イスラエルにとって出エジプトこそ信仰の原点であった。聖書古代史を専攻するカトリック司祭・和田幹男氏は出エジプトの出来事について述べる。
-和田幹夫「神の軌跡を求める旅」から「出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。この歴史上の実際の体験を通じて・・・自分たちの神は歴史的な出来事に関わってくださるお方だという認識を得るにいたった。歴史を導く神というイスラエル独特の神認識がそれ以来始まった」。
・イスラエルの民は常に出エジプトの歴史を回顧し、与えられた律法を社会倫理の基礎とした。
-出エジプト19:1-6「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。彼らは・・・山に向かって宿営した。モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『・・・あなたたちは見た、私がエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、私のもとに連れて来たことを。今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる・・・あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である』」。
・出エジプトの思想は新約にも継承されている。ルカ9:31はイエスの山上の変貌の中で述べる「モーセとエリヤはイエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)。この「最後」という言葉には“エクソダス”というギリシャ語が使われている。エクソダスは脱出、解放という意味であり、出エジプト記の原題がこのエクソダスである。イエスがエルサレムで新しい出エジプトを、罪と死からの解放をなされるという意味を、ルカはこのエクソダスという言葉を使って示そうとしている。