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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年10月14日祈祷会(詩編72篇、公正と正義を王に)

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1.王の即位式の歌

 

・詩編72篇は王の即位式の時に歌われた詩であろう。詩人は「神よ、あなたの公正を王に、あなたの正義を王の子に」と祈る。公正(ミシュパート、裁き)と正義(ツェダカー、恵みの御業)こそ、人々が王に望むものであった。表題には「ソロモンの詩」、末尾には「ダビデの祈り」が記されている。詩編編集者は72編をダビデが子ソロモンに歌った歌と理解している。

-詩編72:1-2「神よ、あなたによる裁きを王に、あなたによる恵みの御業を王の子にお授け下さい。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ、あなたの貧しい人々を裁きますように」。

・旧約の社会法は社会的弱者(寡婦、孤児、寄留者)の保護を基本に置く。公正と正義こそ神が求められるものであり、神から支配を託されている王が為すべきことであった。それこそが創造の神の意志であり、それが正しくなされる時、山も丘も豊かな恵みでそれに答えると詩人は歌う。

-詩編72:3-4「山々が民に平和をもたらし、丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め、乏しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように」。

・逆に王が公正と正義を為さない時、自然もまた荒廃する。創世記は神の戒めを破った最初の人間に語る「大地はお前にゆえに呪われるものとなった」(創世記3:17)。またエレミヤは人間の悪のゆえに、大地が枯渇し、植物も動物も死滅していくと告発した。アマゾンの熱帯雨林は乱開発により破壊が進み、消滅が危惧されている。熱帯雨林は大量の二酸化炭素を吸収し、酸素を創り出す、「地球の肺」である。この消失は人間の生存環境を破壊してしまう。

-エレミヤ12:4「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う『神は我々の行く末を見てはおられない』と」。

・人間の悪が自然を破滅させずにおかないとすれば、世界の回復は人間と自然との調和を抜きにしてはありえない。ノアの洪水は人により大地が呪われたことの象徴であるが、洪水後の世界においては神が地上のあらゆる生き物と永遠の契約を結ぶことによって調和が回復される。

-創世記9:9-11「私は、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。私があなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。

・詩編72篇の祈りも人間と自然の調和を願う。

-詩編72:5-7「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように。王が牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となりますように。生涯、神に従う者として栄え、月の失われる時までも、豊かな平和に恵まれますように」。

 

2.公正と正義を王に

 

・後半からは全世界に及ぶ王の支配が祈られる。「海から海まで」、「大河から地の果てまで」、地中海世界が当時の人々にとって世界であった。かつて世界を支配したソロモンの栄華がここで偲ばれている。

-詩編72:8-11「王が海から海まで、大河から地の果てまで、支配しますように。砂漠に住む者が彼の前に身を屈め、敵が塵をなめますように。タルシシュや島々の王が献げ物を、シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように」。

・ソロモンは就任に当たり、「民を正しく裁き、善悪を見分ける知恵を与えたまえ」と祈った(列王記上3:7-9)。以後の王もそのような祈りを為すことが出来ますようにと詩人は祈る。

-詩編72:12-15「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように・・・彼のために人々が常に祈り、絶え間なく彼を祝福しますように」。

・王が公正と正義を行う時、大地もそれに応えて、豊かな実を結び、人々の数も増やされていく。

-詩編72:16-17「この地には、一面に麦が育ち、山々の頂にまで波打ち、その実りはレバノンのように豊かで、町には人が地の青草ほどにも茂りますように。王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け、彼を幸いな人と呼びますように」。

3.詩篇72編の黙想

 

・詩篇72編に歌われる王の姿は理想ではあり、現実ではなかった。現実の王たちは権力をほしいままに貪り、民を抑圧し、エジプトやメソポタミヤの強国の軍事力に怯え、終には国を滅ぼしてしまう。

-エゼキエル34:2-5「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは・・・お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」。

・人々は理想の王を求めたが現実にはいなかった。しかし神が公正と正義の神であられる限り、そのような王を与えて下さると信じ、預言者たちはその王をメシアと呼ぶようになった。

-ゼカリヤ9:9-10「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、驢馬に乗って来る。雌驢馬の子である驢馬に乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。

・新約記者はそのメシアこそイエスだと信じた。マタイはイエスがゼカリヤ書の預言通り、驢馬に乗ってエルサレムに入城されたと伝える。

-マタイ21:4-9「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、驢馬に乗り、荷を負う驢馬の子、子驢馬に乗って。』」弟子たちは行って・・・驢馬と子驢馬を引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。

・ルカはイエスの最初の宣教は、メシアを預言するイザヤ書を読まれることから始まったと記述する。

-ルカ4:16-21「イエスはお育ちになったナザレに来て・・・聖書を朗読しようとしてお立ちになった・・・『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に・・・するためである』・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。

・私たちはイエスの弟子として召された。私たちが自己の救いに終始していたら、弟子としての役割を果たしていない。「公正と正義」のために働くのが弟子だ。ヘンドリック・クレーマー「信徒の神学」は語る。

-信徒の神学から「初代教会においては、信仰と生活は一致していた。しかし、現代においては、信徒は世俗的関心に忙殺され、真に信仰者として生きることが難しくなっている。神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれ、教会は自己中心的に思考し、世に対する関心は二次的であった。しかし、教会は宣教のための器として立てられた。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。

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