1.悪の支配する世にあって
・詩篇12編は悪の支配する世、「信義(慈しみ)と信実(信仰)」の絶えた世界にあって、「主よ、救いたまえ」と祈る歌だ。
-詩篇12:2「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」。
・悪は言葉の上に現れる。滑らかな言葉(へつらいやおもねりの言葉)が吐かれ、人は二心を持って他者をだます。
-詩篇12:3「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します」。
・「主よ、偽りの言葉を吐き、神などいないとうそぶく彼らを滅ぼしてください」と祈り手は祈る。
-詩篇12:4-5「主よ、すべて滅ぼしてください、滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います『舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。私たちに主人などはない』」。
・社会の階層化が進むにつれ、「滑らかな舌」が幅を利かし、権力が富と結びつき、賄賂が日常化し、自己の利益のために卑劣な手段が弄される。イスラエルでは王国時代の進展と共にこのような社会が形成され、多くの預言者が立って、これを告発した。これはそのまま現代にも通用する告発の言葉だ。
-ミカ7:2-7「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す・・・隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、私の願いを聞かれる」。
・新約時代、人々はギリシャ語訳詩篇を読み、「主よ、救いたまえ=キリエ・エレクソン」と祈った。エリコ郊外で盲人がキリストの憐れみを求めた時の言葉がそうだ。教会はこの言葉を祈りの中で、讃美の中で伝承してきた(グレゴリオ聖歌集)。
-マタイ20:29-30「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて『主よ、私たちを憐れんでください(エレクソン・キリエ)』と叫んだ」。
2.絶望の中で希望を歌う祈り
・預言者が主に希望を置いたように、祈り手も希望を主に置く。「主はこの不正義を放置されない」と祈り手は歌う。
-詩篇12:6「主は言われます『虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、私は立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう』」。
・祈り手は歌う「主の約束は精錬された銀のように清い。主は私たちを見捨てられない」と。
-詩篇12:7-8「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守り、この代からとこしえに至るまで、私たちを見守ってくださいます」。
・詩人は「小さな者から大きな者」まで、すべての人が自分の利を求めてやまない社会の有様を嘆いている。
-詩篇12:9「主に逆らう者は勝手に振る舞います、人の子らの中に、卑しむべきことがもてはやされるこの時」。
・イスラエルの民は「主が救済の行為をされる」ことを、出エジプトの救いの体験から学んだ。彼らが出会った主は「貧しい者、虐げられた者の神」である。
-出エジプト記22:20-23「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」。
・この信仰は新約時代にも継承され、ルカはマリアの賛歌の中でこの信仰を歌い上げる。
-ルカ1:51-54「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。
3.絶望の中でもあきらめない人々がいる
・現代においても信仰は継承されている。キング牧師は黒人解放運動の行き詰まりの中にも希望を見た。以下は暗殺前夜に為されたキングの説教の一節だ。キングは申命記34章のモーセの死に自分をなぞらえている。
-1968年4月3日、テネシー州メンフィスでの説教から「一体これから何が起ころうとしているのか、私には分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。しかしそんなことは、今の私には問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂に登ってきたからである・・・神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は皆さんと一緒にその地に到達することは出来ないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちは一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安なことはない。私はだれも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光をみたのだから」。
・ロックグループ・U2のボノは「終わりなき旅」の中で歌う「僕は山に登った。僕は神の国を信じている、やがてすべての色(人種)は一つに溶け合うはず」。旧約の信仰が、新約の信仰がここにも継承されている。決して前途に絶望することはない。
-I have climbed highest mountain, I have run through the fields, Only to be with you, Only to be with you.(聳え立つ山にも登ってきた、大地を駆け抜けてきた、あなたと共にいるため、あなたと共にいるために)・・・I believe in the kingdom come, Then all the colors will bleed into one, Bleed into one, Well yes I'm still running.(僕は来るべき神の国を信じる,その時、全ての皮膚の色は一つに溶け込んでゆく,一つに溶け込んでゆく,だけど僕は今も走り続けている)・・・You broke the bonds and you, Loosed the chains, Carried the cross, Of my shame, Of my shame, You know I believed it.(あなたは束縛を打ち壊し,そしてあなたは鎖を解いた,十字架を担った,僕の恥辱の,僕の恥辱の,あなたはご存知、僕がそれを信じていることを)。
・日本で30年以上人々の孤独の問題に向き合ってきたNPO「抱樸(ほうぼく)」(理事長:奥田知志、東八幡キリスト教会 牧師)は、コロナで住む家を失った人を支援するため緊急で行ったクラウドファンディングで1億円を集めることに成功した(2020.7.30朝日新聞)。彼らの活動はマタイ25章の実践である。
-マタイ25:35-36「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
*東八幡教会ホームページから
「抱樸の「樸」は、原木や荒木を意味する。原木をそのまま抱きとめるという出会い方であり、人と人との関係を示す。長くこの国は困窮状態にある人々に「自ら申請すること」を求めてきた。それがないとダメだ。「申請主義」である。しかし、苦しい状態にある人々は孤立していた。「なぜ、もっと早く相談しなかった」と言いたいが、相談できない、あるいは相談する相手がいないのが困窮者である・・・社会は、「自己責任」、「身内の責任」と言い、社会そのものは存在意義を自ら捨て、無縁化した。」
「元来社会とは赤の他人同士が誰かのために健全に傷つく仕組みであり、傷の再分配構造だと考える。抱樸とは、出会いにおける傷を必然とし、それを相互豊穣のモメントとすることである。NPO法人抱樸は、「一人の人を大事にする」ことから始まった。最初に「事業計画」があったのではない。「一人の人」との出会いの中で課題を見出し、一つ一つに対応する中で様々な仕組みを作ってきた。お腹の減った人には炊き出しを、着るものがない人には着物を、宿のない人には家を、病院に付き添い、保証人が立てられない人のためには保証人制度を、抱樸館を建て、障碍作業所、介護事業所、レストラン、職業訓練事業所、刑務所出所者の支援、生活自体のサポートの仕組みを構築してきた。すべては、「出会った個人、そのひとりを大切にすること」の積み重ねの中で進んできた」。