1.不当な迫害の中で逃げよと勧められる祈り手
・詩篇11編は不当な迫害の中で命が危険に追い込まれた祈り手の歌だ。彼の友人たちは、「不法と暴力が支配している」から、「今は山に逃げよ」と勧める。
-詩篇11:1-3「主を、私は避けどころとしている。どうしてあなたたちは私の魂に言うのか、『鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか』と」。
・詩篇11編はサウル王の迫害を避けて荒野に逃れたダビデの歌とされてきた。ダビデはサウル王の武将として頭角を現し、民衆の人気が王をしのぐようになり、サウルはダビデを妬み、殺そうとし、ダビデは王宮から逃げる。
-サムエル記上18:5-9「ペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、・・・女たちが出て来て・・・楽を奏し、歌い交わした『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った『ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか』。この日以来、サウルはダビデを妬みの目で見るようになった」。
・「逃れることと踏みとどまること」を私たちはどう判別すれば良いのか。ドイツの牧師D.ボンヘッファーは1933年、ナチスが政権を取り、ユダヤ人迫害を始めると抗議するために告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかけ、政権ににらまれる。心配した友人たちはアメリカ行きを勧め、1939年彼はアメリカに渡ったが、すぐドイツに帰る「他の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分も苦しみを共にしなければもう祖国の人に福音を語れない」。彼は1943年4月に逮捕され、1945年4月に処刑されて死んだ。獄中で彼が作った詩は時代を超えて読まれている。
-新生讃美歌73番「善き力に我囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう。過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も騒ぎ立つ心しずめ、御旨に従いゆく」。
・逃げることによって悪人との対決を放棄し、この地を敵対者に委ねることになる。「それでよいのか」とボンヘッファーは問う。重たい問いだ。私たちは、逃れることが必要な時と踏み止まるべき時とを、どのように見極めるべきなのか。マルコは紀元70年のユダヤ戦争において、ローマ軍に包囲されたエルサレムから「逃れよ」と信徒に勧める。この逃亡により教会は生き残った。
-マルコ13:14「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、読者は悟れ、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。
・説教者・由木康は、ヨハネ福音書注解の中で、イエスが「弟子たちを逃れさせよ」と言われたことに関連し、「歴史は弟子たちが逃げることを通して、教会が形成されて行ったことを伝える」と語る。
-由木康「イエス・キリストを語る」から「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」。
2.「逃げない、主に委ねる」と応える祈り手
・祈り手は「逃げなさい」と言う勧告を断る。主が天の宮にいまして全てを知っておられ、必要な時には守ってくださると信じるからだ。
-詩篇11:4-6「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる」。
・「人の子を調べる」の「調べる」は、金属の精錬の時に用いられる言葉だ。主が正しく裁かれる故に、その裁きに委ねると祈り手は言う。詩篇139編にも同じ信仰がある。
-詩篇139:8-10「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。・・・あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえてくださる」。
・江戸時代初期のキリシタン迫害においては多くのキリスト教徒が火刑にされて死んだ。主は助けてくださらなかったのだろうか。飯嶋和一「出星前夜」では島原の乱の悲惨な末路が記されている。ダニエル書には「たとえそうでなくとも」との信仰が記されているが、このような信仰を私たちは求められているのだろうか。
-ダニエル3:15-18「『私の建てた金の像を・・・拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか』。(三人は)ネブカドネツァル王に答えた『・・・私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません』」。
・祈り手は神の義にあくまでもこだわる。義なる神は必ず最善の道を用意されるはずだと。
-詩篇11:7「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」。
・ルカは、イエスは全てを主に委ねて十字架で死なれたと記す。わからなくとも委ねていく、それが信仰だ。
-ルカ23:46-47「イエスは大声で叫ばれた『父よ、私の霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」。
・委ねに応えて神はイエスをよみがえらせて下さった。死を超えた命を信じるのであれば、全ては満たされる。
-マタイ10:28「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。
- 逃れること、踏みとどまること
・聖書には「逃れること」を正当化する記述と、「踏みとどまること」を求める記述の双方があるように思える。逃れの典型は「出エジプト記」であり、そこではエジプト王から逃れることを通して、新しい民の形成が語られている。他方、ダニエル書は「踏みとどまって死ぬ」ことを求める。その違いは、時代背景であろうか。民族形成のために逃れることが必要な時と、民族維持のために「踏みとどまって死ぬ」ことが求められる時がある。私たちに必要なことは、それを見極める知恵ではないだろうか。
-ニーバーの祈り「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・パウロはコロサイ書で、「奴隷は肉による主人に従いなさい」と語る。
-コロサイ3:22-24「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」。
・当時は奴隷制社会であり、パウロは奴隷制を当然のものとして受け入れることを求めているのではない。パウロは主人に対しても「奴隷を正しく公平に扱いなさい」と語る。奴隷が主人に従うことを定めた掟は多くあるが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外にはない。当時の社会では奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままだった。しかし、パウロは主人に語る「あなたがたにも主人が天におられる」ではないか。ここに従うことを通して与えられる解放が述べられている。
・「現在の境遇は神が与えてくれたものであり、それに不満を言い、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれない。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、仕えることを通して、道が開かれて来る。現在の苦しみを忘れるために霊の力を借り、神秘を求めても仕方がないのだ。現在の与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」と。ここに「支配と従属」に代わる新しい掟、「積極的従属」の道が示されている。それはイエスが語られた言葉「仕える」ことの具体化なのである。
-マルコ10:43-44「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。