1.神が見出せない時に
・詩篇10編は詩編9編の続編で、おなじ「いろは歌」が二つに分けられた。詩篇9編で詩人は義なる裁き主としての主を賛美する。
-詩篇9:9-10「御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に、主が砦の塔となってくださるように、苦難の時の砦の塔となってくださるように」。
・しかし詩篇10編では「神の沈黙」が取り上げられる。この世には貧しい者が搾取され、その搾取をする者が罰せられないという現実がある。「善が栄え、悪が滅びる」のではなく、「悪が大手を振って生きている」現実がある。
-詩篇10:1-2「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて、その策略に陥ろうとしているのに」。
・傲慢な者は「神などいない」、「自分を罰する者はいない」とうそぶき、彼らは栄え、無力な者からさらに貪り、私欲を肥やしていく。「神の裁きが悪人に届いていない」と詩人は嘆く。
-詩篇10:3-4「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。神に逆らう者は高慢で神を求めず、何事も神を無視してたくらむ」。
・預言者として立たされたエレミヤが直面した問題も同じだ。神から召命を受けて、「罪を認めて悔い改めよ」と叫ぶエレミヤを人々は嘲笑し、しかもエレミヤが語る滅亡預言は成就しない。悪がますます栄える現実の中で、エレミヤは神に叫ぶ。
-エレミヤ12:1-2「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです」。
・祈り手は訴える。「この世はまるで無法地帯のようではないか」、「神の裁きはあまりにも高い」、神の怒りの審判が地上に届いていないと。
-詩篇10:5-9「あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのような時にも力をもち、自分に反対する者に自分を誇示し、『私は揺らぐことなく、代々に幸せで、災いに遭うことはない』と心に思う。口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠す。村はずれの物陰に待ち伏せし、不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ、貧しい人を捕えようと待ち伏せ、貧しい人を網に捕えて引いて行く」。
・悪に痛めつけられる者も絶望し、「神などいない」と叫ぶ。
-詩篇10:10-11「不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、心に思う『神は私をお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と」。
2.何故この世に悪があるのか
・「何故この世の悪があるのか」、神義論と呼ばれる問題だ。哲学者のヒュームは次のように述べた。
-ヒューム「神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、できないのだろうか。それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は悪を阻止することができるが、そうしようとしないのだろうか。それならば、神は悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか。でも、それなら何故悪が存在するのか」。
・何故悪があるのか、神は何故悪を放置されるのか。祈り手もわからない。わからない中で彼は神を求める。
-詩篇10:12-13「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう」。
・私たちに出来ることは、わからなくとも求め続けることだ。その時、神は応えてくださる。
-詩篇10:14-15「あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みを委ねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをお任せします。あなたは孤児をお助けになります。逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き、彼の反逆を余すところなく罰してください」。
・イエスは自らの使命を果たすことなく、十字架で死なれた。その時、彼は、「神よ、何故ですか」と問い続けた。それは絶望の叫びだ。
-マルコ15:33-34「三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。
・神はこれに応えてイエスを死からよみがえらせた。詩編作者も絶望の中で神を信じて行く。
-詩篇10:16-18「主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために、裁きをしてくださいます。この地に住む人は、再び脅かされることがないでしょう」。
3.詩篇10編の黙想(絶望から希望へ)
・この世で貧しい者が豊かになることは難しい。貧富の格差は社会の中に構造的に組み込まれている。
-ネヘミヤ記5:1-5「民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあがった。ある者は言った。『私たちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい』。またある者は言った。『この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない』。またある者は言った。『王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。同胞も私たちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、私たちにも子供がある。だが、私たちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものだ』」。
・神は富める者に貧しい者の救済を命じる。しかし実行されることは少ない。みな自分の利益を第一にする。
-申命記24:17-21「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない・・・畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい・・・オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」。
・救済が見えない時、私たちはどうすべきか。信仰とは、今は見えないものがいつかは明らかにされることを信じて、待つことを求める。今わからなくとも良い。
-第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。
・エリ・ヴィーゼルはアウシュビッツ強制収容所での処刑体験を報告する「ある日、三人が絞首刑で処刑されることになった。二人は大人で一人は子供だった。収容所長の合図で三つの椅子が倒された。二人の大人はすぐに息絶えたが、子供は体重が軽くて臨終の苦しみを続けた。それを見ていたある者が叫ぶ『神はどこにおられるのだ』。その時ヴィーゼルは、心の中で叫ぶ『ここにおられる、ここに、この絞首台に吊るされておられる』」(エリ・ヴィーゼル『夜』から)。
・V.フランクルは「夜と霧」の中で報告する「鉄条網の中で、夕焼けを綺麗だ、と見上げることができた人間が生き残った」と。ナチスに捕らえられたボンヘッファーは獄中で語った。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる。そのために、すべてのことが働いて益となるように奉仕せしめる人間を、神は必要とし給う。私は、神はいかなる困窮に際しても、われわれが必要とする限りの抵抗力を、われわれに与え給うと信じる・・・私は、神は決して無時間的な運命ではなく、誠実な祈りと責任ある行為とを期待し給い、そしてそれらに答え給うと信じる(ボンヘッファー「抵抗と信従」から)。これを信じて行くのが信仰だ。だから私たちは、どのような絶望の時にあっても、絶望しない
-ローマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。