1.救いを求める者の祈り
・詩篇4編は3編と関連付けて読まれることが多い。共に、苦難の中にある者の叫びである。作者は人格を否定するような攻撃を敵から受けており、その中で主に救いを求めている。
-詩篇4:2「呼び求める私に答えてください、私の正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください」。
・しかし、口語訳では、「かつて助けて下さったゆえに、今度も助けて下さると信じています」とあり、新共同訳とは意味内容が異なる、新しい聖書協会訳も口語訳に戻っていることより、新共同訳は誤訳、あるいは意訳とみなされる。
-詩篇4:1(口語訳)「私の義を助け守られる神よ、私が呼ばわる時、お答えください。あなたは私が悩んでいた時、私をくつろがせてくださいました。私を憐れみ、私の祈をお聞きください」。
・作者は「神の義」を信じているゆえに、苦難の中にあっても、非難する者に反論することが出来る。自分が正しいことを神は知っておられると思うからこそ、反論することが出来る。
-詩篇4:3「人の子らよ、いつまで私の名誉を辱めにさらすのか、虚しさを愛し、偽りを求めるのか」。
・“人の子”、ベネ・イーシュという言葉が用いられ、社会的地位のある者、富んでいる者を指す(一般的な“人の子”はベネ・アダーム)。作者は社会的に排除された、あるいは偽証等によって名誉が汚された状況に追い込まれたのであろう。その中で「主は共にいてくださり、自分の正しさを認めてくださる」と作者は叫ぶ。
-詩篇4:4「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」。
・作者の置かれた具体的な苦難はわからない。彼は社会的な地位のある人、有力な人々から侮辱を受け、ないがしろにされた。彼は富む人を「空しいものを求め、虚偽を追い求める者」とよんで、その悔い改めを求める。
-詩篇4:5-6「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」。
・「おののいて罪を離れよ」、直訳では「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない」。「怒りを持ち越さない」、夜の間に覚える怒りや憤りも、次の日の朝にはなくなる経験を私たちもする。
-ヒルテイー(眠れぬ夜のために)「良い眠りの後では、事柄は全く違って見える。前の晩には巨人のようにのしかかっていた困難も、今は笑って済ますことが出来る」。
2.人から捨てられる時に見えてくる真実
・敵は言う「神の祝福はお前にない」と。その非難の中で、「主よ、あなたの御顔の光を向けてください」と作者は哀願する。作者は収穫の喜びに勝る祝福を与えてくださいと祈る。
-詩篇4:7-8「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、私たちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを私の心にお与えください」。
・そして祝福を与えられた者、主にある平安を与えられた者は不安や恐怖の中にあっても安らかに眠ることが出来る。安らかな眠りこそ、恵みの最大のものだ。眠ることの出来る人は苦しみから回復することが出来る。
-詩篇4:9「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに、私をここに住まわせてくださるのです」。
・祈りに対する応答は外から示されることもあれば、心密かに響くこともある。応答がない場合も多い。それでも人は祈りによって、神の大いなる権能の中に生かされていることを感じ、心の喜びと安らぎが与えられ、心身が癒されていく。癌の最大の特効薬は制癌剤でも放射線療法でもなく、“生きる意志”だと言われる。
-ピリピ4:6-7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
・無実であるのに断罪され、不当な非難をされることもある。それは単に悲しみ、苦しみをもたらすばかりではなく、それを通して見えてくる真理ももたらす。不条理な苦しみや悲しみもまた主の恵みなのだ。内村鑑三は1891年の第一高等中学校不敬事件で、その職を奪われ、全国民から国賊と罵られたばかりか、教会からも批判され、その上みずから重患の床に打ち倒されている間に、妻加寿子も急逝して、文字通り人生のどん底に投げ込まれた。その事件から2年後の1893年に内村は「基督信徒の慰め」を発表した。この出来事を通して、内村は従来の教育や評論から、聖書研究に打ち込むようになった。内村の真価は評論ではなくその聖書研究にある。
3.詩篇4編の黙想(周囲の非難の中でどう生きるのか)
・モルトマンは「希望の倫理」の中で語る「人間の生命は肯定されなければいけない。肯定されることにおいてのみ、子供たちは健康な自己肯定が可能になる。人間の生命は受容されなければ、そこに死が生まれる 。子供が自らの生存を否定される経験をすれば、心身は病んで荒廃してしまう。成人が否定と軽蔑を経験すれば、引きこもり、防御に走る。こうして、「魂の死」が生じる。人間の生命は「参加と参与」を必要とする。不参加は無関心をもたらし、生命を病ませる。人間の生存とは、社会的に存在することであり、処々の関係において存在する限り、それは生き生きとする。 逆に諸関係の喪失は「社会的な死」をもたらす」。
*ドイツのGKロベルト・エンケの自殺
「2010 FIFAワールドカップ欧州予選では5試合に先発し、4試合を完封した。しかし2008年10月、ロシア戦に向けての練習中に左腕の舟状骨を痛めて手術を受けることになり、2か月はピッチ外から試合を見守った。2009年1月に復帰し、再び代表の正GKとなった。2009年秋、カンピロバクター菌に感染したと発表し、大事をとってチリ戦の招集メンバーから外れた。2009年11月10日、ハノーファーの自宅近くにある踏切で快速列車にはねられて死亡した。32歳だった。警察は自殺であると判断した。妻は彼が「それまでの6年間鬱病に苦しみ、精神科医に通院していた」ことを明らかにした。厳しい競争にさらされるプロサッカーの世界において、その多くが精神疾患に苦しんでいるとの報告がなされている。国際プロサッカー選手協会は、現役選手の約25%、引退した選手の約40%が精神疾患にかかっているとの報告を出している」。
*円谷幸吉の自殺も類似している。
「昭和39年、東京オリンピックで円谷幸吉は、銅メダルを獲得した。円谷は2番目に国立競技場のトラックにはいるが、トラックでヒートリーに抜かれ三位に終わる。彼は、最後にヒートリーを抜き返せなかったことを悔やみ、次のメキシコオリンピックに向けて練習を開始するが、コーチの転勤や故障、手術などが重なり思うようにいかず、オリンピック開催の年である昭和43年1月9日、28歳の円谷は自殺をした。『国民的期待感の重圧に耐えかねて』、自殺したと言われている」。
・モルトマンは続ける「人間の生命は肯定され、受け入れられ、関心を持たれ、満たされた生命である。意識的に生きられた生命は、それによって自己のうちに矛盾を持ち、その矛盾に耐え、それを克服する生命である。死をはばかり、荒廃から純粋に守られる生命ではなく、死を耐え、その中で維持される生命が、精神の生命である。永遠の生命は、この生において、地上で経験出来る生命である。永遠の生命は、愛され愛する生命において、いかなる瞬間にも感覚的に経験される生命である。それは死を乗り越える生命であり、死の彼岸において初めて経験される生命ではない」 。
・関係性を大事にする ユダヤ教の宗教哲学者マルティン・ブーバー は語る「世界は人間のとる態度によって〈我と汝〉、〈我とそれ〉の二つ となり、現代文明の危機は〈我とそれ〉という人間関係の希薄化によって
生まれており、〈我〉と〈汝〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる 」 。
・苦難はそのとらえ方により意味が変わってくる。玉島教会牧師で生涯を岡山ハンセン病療養所での慰問伝道に捧げた河野進は「病まなければ見えない真理がある」ことに気づいた。
-河野進・病まなければ「病まなければささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ聞き得ない御言葉がある。病まなければ近づき得ない聖所がある。病まなければ仰ぎ得ない御顔がある。おお病まなければ私は人間でさえもあり得ない」。