1.不当な告発を受けている者の祈り
・詩篇7編は不当な告発を受けている祈り手が、神の審判を求める祈りだ。祈り手は身に覚えのない罪で告発を受けている。彼はエルサレム神殿に行き、自己の無実を訴える。
-詩篇7:2-3「私の神、主よ、あなたを避けどころとします。私を助け、追い迫る者から救ってください。獅子のように私の魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです」。
・この詩篇は伝統的にはサウル王の配下クシュに追われるダビデの祈りとされているが、前書きは後代の付加であろう。ダビデは王位を狙っているとの不当な疑いをサウルからかけられ、長い逃亡生活を余儀なくされた。
-詩篇7:1「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」。
・イスラエルでは、地方裁判所で決着のつかないものは、中央裁判所であるエルサレム神殿に訴え、そこで神の(具体的には祭司の)審判を受けることが出来た。ソロモンは神殿奉献の祈りの中で言及している。
-列王記上8:31-32「もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられる時、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらして下さい」。
・祈り手は「自分は無実であり、もし自分に罪があれば滅ぼされてもかまわない」と訴えている。
-詩篇7:4-6「私の神、主よ、もし私がこのようなことをしたのなら、私の手に不正があり、仲間に災いをこうむらせ、敵をいたずらに見逃したなら、敵が私の魂に追い迫り、追いつき、私の命を地に踏みにじり、私の誉れを塵に伏せさせても当然です」。
2.神の審判を求める祈り
・古代において神の前の裁き(神明裁判)は一般的であったが、多くは探湯(くがたち)のように、占いや呪術性の高いものであった。詩篇では占いではなく、「心とはらわたを調べる主」、原文では「心臓と腎臓を見極める主」に委ねるとある。人の内面まで探って裁定を下される主の正しさへの信仰が見られる。
-詩篇7:7-10「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり、憤りをもって身を起こし、私に味方して奮い立ち、裁きを命じて下さい。諸国をあなたの周りに集わせ、彼らを超えて高い御座に再び就いて下さい。主よ、諸国の民を裁いて下さい。主よ、裁きを行って宣言して下さい、お前は正しい、とがめるところはないと。あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」。
・「主は人の心の奥底を見られる」との信仰はエレミヤもまた持っていた。
-エレミヤ17:9-10「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」。
・祈り手は「正しく裁く神」、「不正を許さない神」を信頼する。不当な告発に苦しめられている者は、主は正しい裁定をお与え下さると信じて祈る。信仰を持つ者は自分の手で不正を糾す必要はない、何故なら、主は知っていて下さり、それを糾して下さると信じることが出来るからだ。
-詩篇7:11-14「心のまっすぐな人を救う方、神は私の盾。正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神。立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし、弓を引き絞って構え、殺戮の武器を備え、炎の矢を射かけられます」。
・ダビデはサウルに追われていた時、彼を殺す好機を与えられても殺さなかった。主が裁かれると信じる故だ。
-サムエル記上24:12-13「わが父よ、よく御覧ください・・・私は上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。私の手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした・・・主があなたと私の間を裁き、私のために主があなたに報復されますように。私は手を下しはしません」。
・祈り手は自分をおとしめた敵を主に告発する。悪を企む者は「天に向かってつばを吐く」、その始末は自分に帰ってくると。
-詩篇7:15-17「彼らは悪をみごもり、災いをはらみ、偽りを生む者です。落とし穴を掘り、深くしています。仕掛けたその穴に自分が落ちますように。災いが頭上に帰り、不法な業が自分の頭にふりかかりますように」。
・最後に祈り手は主を讃美する。彼を取り巻く困難な状況は変わらないが、救済の時は近いことを確信する。
-詩篇7:18「正しくいます主に私は感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います」。
・彼は「主は人の心の奥底までも見られる方であり、その法廷には潔白な者しか立ち得ない」ことを知る。そしてこの件に関しては彼にやましいところはない。だから「主は救って下さる」と確信する。この「主の正しさ」こそ、祈り手の最後の避け所なのだ。
-詩篇26:1-2「主よ、あなたの裁きを望みます。私は完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を、火をもって試してください」。
3.詩篇7編の黙想(ゆえなき批判や中傷を受ける時)
・詩篇7編の作者は故なき告発を受けて、神殿に来て神に訴える「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり、憤りをもって身を起こし、私に味方して奮い立ち、裁きを命じて下さい・・・主よ、裁きを行って宣言して下さい、お前は正しい、とがめるところはないと。あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」(7:7-9)。
・私たちも故なき批判や告発を受ける時がある。しかし私たちはキリストもこのような苦難をしのばれたことを知っている。
-第一ペテロ4:12-16「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。
・人の心に中には悪魔がいる。その悪魔は内に向かっては人を自己利益に導き、外に向かっては他者に対しては攻撃的になる。この内外の悪魔に注意し、抵抗するようにペテロは勧める。
-第一ペテロ5:8-9「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」。
・ローマ帝国の支配下にあった小アジアで、回心してキリスト信徒になることは、多くの困難を伴った。イエスは「殺すな」と言われたので、人々はローマ帝国の兵役を拒否した。イエスが「偶像を拝むな」と言われたので、人々はローマ皇帝像を拝まなかった。その結果、キリスト者たちは「非国民」、「世の秩序を乱す者」と呼ばれ、友人や仲間や親戚から排除され、共同体や国から村八分された。その中でペテロは語る
-第一ペテロ3:9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」。
・手紙を受け取った人々は反問する「悪に対して善を、侮辱に対して祝福をする生き方など私たちにはできない」。しかしペテロは語る「キリストの十字架での祈りをあなた方も聞いて知っている。キリストは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23:34)。イエスの生き方をあなた方も継承していくのだ」と。何故ならば「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された」(3:9c)のだからと。キング牧師は語る「私たちは初代キリスト教徒による非暴力的な抵抗が、ローマ帝国を震撼させるほどの巨大な道徳的攻撃力を生み出したことを知っている」。「愛は多くの罪を覆い」(4:8)、ついにはローマ帝国の悪を善に変える力を持った。このことは現代でも通用する。
・イエスは言われた「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-44)。イエスはこの言葉を旧約レビ記の新しい解釈として話された。レビ記は語る「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)。レビ記には敵を愛せとは書かれていない。多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同朋のことであり、同朋でない者は敵であり、人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住んだ。敵を愛することは身の危険を意味した。イエスはそれが人間の自然な感情だと知っておられたが、それでも「父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたも父の子として敵を愛せ」と言われた。
・今日においても状況は変わらない。多くの人は言う「悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれており、軍隊を持たない国はないし、武器を持たない軍隊はない。武器は人を殺すためにあり、襲われたら襲い返す、という威嚇の下に平和は保たれている。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終わらない。イエスはこの敵対関係を一方的に切断せよと言われる。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は語る。敵を愛せ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなる。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書く。
-ローマ12:20-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。