江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月28日祈祷会(詩篇3編、世の人々から捨てられた時)

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1.ダビデの都落ち

 

・詩篇3編の冒頭には「ダビデがその子アブサロムを逃れた時」との表題がついている。これは詩篇編集者がこの詩を、ダビデが三男アブサロムの反逆によって都エルサレムを追われた時の心情を歌ったものと解釈したからであろう。

-詩篇3:1「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子、アブサロムを逃れたとき」。

・詳細はサムエル記下15-17章にあるが、ダビデは三男アブサロムが挙兵した時、エルサレムが戦場になることを避けて逃れた。

-サムエル記下15:10-16「アブサロムはイスラエルの全部族に密使を送り・・・『アブサロムがヘブロンで王となった』と言うように命じた・・・陰謀が固められてゆき、アブサロムのもとに集まる民は次第に数を増した。イスラエル人の心はアブサロムに移っているという知らせが、ダビデに届いた。ダビデは・・・家臣全員に言った『直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう』・・・こうして王は出発し、王宮の者が皆、その後に従った」。

・アブサロムが父ダビデに反逆したのは彼を恨んでいたからだ。妹を辱めた異母兄アムノンを殺したアブサロムをダビデは赦さなかった。一時アブサロム方が優勢になり、民衆の心はダビデを離れ、人々は彼に石を投げた。ダビデは王になる前は義父サウロに命をねらわれ、今は子のアブサロムに命をねらわれる。

-サムエル記下16:7-8「シムイは呪ってこう言った『出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ』」。

・この視点から詩篇3編を見た時、これを「ダビデがその子アブサロムを逃れた時」と位置づけた編集者の考えは理解できる。3:2-3は裏切られ、失意の中にある者の嘆きの歌だ。

-詩篇3:2-3「主よ、私を苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者が私に立ち向かい、多くの者が私に言います『彼に神の救いなどあるものか』と」。

・ダビデは呪う者に反論しなかった。出来事の原因が自分にあることを知る故だ。アブサロム反逆の真の要因は王位継承争いであり、それを招いたのはダビデの多情だ。彼は多くの妻妾を持ち、王子だけで19人も設けた。

-サムエル記下16:11-12「私の身から出た子が私の命をねらっている・・・(彼は)主の御命令で呪っているのだ。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」。

 

2.世から捨てられた時

 

・多くの学者はこの歌はダビデ自身の作ではなく、表題は後代の付加と考える。後代の人々はダビデを神格化し、「メシアはダビデのすえから生まれる」とした。しかし、イエスは「ダビデもまた罪人に過ぎない」と言われた(マタイ22:41-45)。救いは人からではなく主から来る。この歌は人間ダビデの苦しみを超えた深みを持つ。「主は私の頭を高くあげてくださる方」、人は捨てても主は捨てられないとの確信が詩人を支えている。

-詩篇3:4-5「主よ、それでもあなたは私の盾、私の栄え、私の頭を高くあげてくださる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます」。

・四面楚歌の孤独に追込まれれば、多くの人は不眠に陥る。しかし神に信を置く人は、夜も安らかに眠り、元気を取り戻すことが出来た。末期癌で苦しむ人も、いじめで孤立した人も、安らかな眠りこそ、安息の時だ。

-詩篇3:6-7「身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません」。

・詩人は神に訴える「彼らは私があなたから見捨てられたと言っています。どうか立ち上がり、そうでないことを示してください」。「御手を示したまえ」、「御業を現したまえ」、このような祈りを私たちも許されている。

-詩篇3:8「主よ、立ち上がってください。私の神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」。

・多くの注解者は8節を完了形で読む。その時、8節は「主はこれまでも救ってくださった故に、これからも救ってくださるだろう」との信仰の表明になる。

-月本昭男訳3:8「立ち上がってください、ヤハウェ。私を救ってください、わが神よ。あなたはわが敵すべての頬を打ちたたき、邪悪な者らの歯を折られたのですから」。

・8節はパウロの信仰の確信と同じ意味を持つ。過去の救いの体験こそが、将来の救いの確信をもたらす。

-第二コリント1:10「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」。

・詩篇3編は敵への報復を求める詩ではない。神の守りを確信できる者は、自分を呪う者を祝福できるのだ。

-詩篇3:9「救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように」。

・これはパウロがローマ書で教えた祈りと一致する。詩篇3篇は旧約を超えた祈りだ。

-ローマ12:14「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。

 

3.詩編3編の黙想

 

・順境の時には人はその人を賛美する。しかしいったん逆境になれば、人は、「彼に神の救いなどあるものか」と罵り、石を投げる。内村鑑三が経験したこともそうであった。内村はアメリカ留学から帰国後、一高教師になるが、1891年、教育勅語交付式時の頭の下げ方が最敬礼ではなかったとして、「不敬」だと騒がれ、辞職に追い込まれ、新聞紙上で国賊、非国民と罵られ、家に石が投げ込まれた。心労のため、彼はインフルエンザに倒れ、看護の妻加寿子は感染して急逝する。職をなくし、妻を亡くし、教会も内村を捨てた。彼は必死に聖書を読み、祈り、事件から2年後の1893年、「基督信徒の慰め」を発表した。第一章「愛する者を失った時」、第二章「国人(日本人)に捨てられた時」、内村は語る「私は日本国民に捨てられた。そのことによって、私は世界市民になった」(「国人に捨てられた時」、基督信徒の慰めから)。

・パウロの生涯は試練の連続だった。しかし主は必ず救いの手を伸べられた。パウロは自らの体験を通じて、「耐えられない試練を神はお与えにならない」と信徒たちを励ます。信仰の目で見る時、試練こそ祝福の道である。今非常な困難の中にある人は喜べばよい「神はこの困難を私に下さったほどに、私を強くして下さった」。

-第一コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。

・苦難は不満を持って拒否し、不平を持って落胆するならば、何の実りももたらさない。しかし、苦難を主から与えられた鍛錬として受け止めた時、苦難は私たちを精錬する火になる。苦難を受け入れていく時、それは私たちの信仰を成長させ、多くの実を結ばせる。初代教会は迫害や苦難の中で成長してきた。

-ヒエロニムス「キリストの教会は、他のだれかではなく、自分の血を流し、その血を土台として築かれた。襲いかかるものに立ち向かうのではなく、耐えることによって築かれた。迫害が教会を成長させ、殉教が教会に栄光を与えた」(340年頃〜420年)。

・教会がエルサレムを超えて広がり始めたのも、ステファノ殉教をきっかけにエルサレム教会への迫害が起こり、信徒たちがユダヤ各地やサマリアへ散らされたからである。迫害によりエルサレムを追われた人々は地方伝道を始め、行く先々で福音を伝え、「信徒への迫害は福音をエルサレムの外へ拡大する」きっかけとなった。-使徒言行録8:1-4「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った・・・散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。

・迫害の中でしか知りえぬ真理がある。キリスト教の絶対平和主義もこの迫害の中で生まれて行った。

-「ユダヤ戦争を生き延びたマタイ教会の中心メンバーは、その破局を透徹した信仰の目で、偏狭な自民族中心主義(ユダヤ人国粋主義者)と、軍事力で覇を唱えようとする帝国主義(ローマ帝国)の破綻を捕らえている。『平和を実現する人々は、幸いである』、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』等のイエスの言葉を伝えたのは、その帝国の支配に痛めつけられた戦争難民たちであった。マタイ共同体の人々は、戦争はもう二度としないと誓い、敵を愛し迫害する者のために祈ること、これこそが平和を実践し、創っていく唯一の現実的な道であると信じ、行動していたのである」。(須藤伊知郎「新約聖書解釈の手引き」、268-271)。

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