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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年11月12日祈祷会(詩篇26編、無実を訴える切実な祈り)

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1.故なき告発により窮地にある者の歌

 

・本詩は故なき罪を告発されている詠み手が無実を訴える祈りの詩である。詠み手の言う「主よ、あなたの裁きを求めます」とは、イスラエルの社会において、不当に訴えられた者が自己の無実を主張する典型的な表現だ。読み手は神殿で自己の無実を訴えている。

-詩編26:1「主よ、あなたの裁きを望みます。私は完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」。

・詠み手は「私のはらわたと心を調べよ」という。原文では「腎臓と心臓」、古代人は腎臓に人の思いが、心臓に心が宿ると考えた。「私の思いと心を検分して、私がうそを言っているかどうか調べてください」と彼は訴える。

-詩編26:2「主よ、私を調べ、試み、はらわたと心を、火をもって試してください」。

・彼は、「自分は間違ったことをしてこなかった」と神に訴える。それは自己義認の訴えではなく、人から不当なそしりを受けても、神は真実を知っていてくださるとの思いから出る言葉だ。「いつくしみ=ヘセド」、「まこと=エメト」、旧約に繰り返し現れる「神の信実」を示す言葉だ、

-詩編26:3-5「あなたのいつくしみは私の目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません」。

・彼は両手を洗って無実を示し、祭壇をめぐって感謝と賛美をささげることを誓う。彼は神がこの苦境から彼を救い出してくださることを信じている。

-詩編26:6-8「主よ、私は手を洗って潔白を示し、あなたの祭壇を廻り、感謝の歌声を響かせ、驚くべき御業をことごとく語り伝えます。主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを私は慕います」。

・他方、彼は自分の置かれた状況が容易ならざるものであることも知っている。だから「無実の罪で罪人の烙印を押されることにないようにしてください」と、彼は祈る。

-詩編26:9-10「私の魂を罪ある者の魂と共に、私の命を、流血を犯す者の命と共に、取り上げないで下さい。彼らの手は汚れた行いに馴れ、その右の手には奪った物が満ちています」。

・最後に彼は主を讃える。たとえ人から何と言われようと、主は自分の思いと心を知ってくださる感謝の祈りだ。

-詩編26:11-12「私は完全な道を歩きます。私を憐れみ、贖ってください。私の足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共に私は主をたたえます」。

 

2.人は知らなくともあなたは知ってくださる

 

・詩編には自己を見つめ、その罪の赦しを求める祈りと、本詩のように、自己の無実を主張し、正しい裁きを主に求める詩の双方がある。本詩は一見すると、自己義認を主張する傲慢な詩のようにも思える。しかし他者からのいわれなき告発によって苦境に立たされた時、私たちも自己の潔白を主張する。その主張が人々に認められない時には神に訴えるしかない。本詩は決して自分を正しいとする者の歌ではなく、神の憐れみ(ヘセド)を求める歌だ。

-イザヤ49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。

・この世では、祈りが聞かれることなく、苦難の中で、無惨にも死んでいく人々がいる。そのような時に人は問う「神はどこにおられるのか」。信仰者は答える「神は苦しむ者と共におられる」。エリ・ヴィーゼルはユダヤ人のゆえにアウシュビッツ強制収容所に収監された時の体験を述べる。

-エリ・ヴィーゼル「夜」から「ある日、三人が処刑された。二人の大人ともう一人は子供だった。収容所長の合図で三つの椅子が倒され、二人の大人はすぐに息絶えたが、子供は軽くて臨終の苦しみを続けた。それを見ていた人たちの誰かが叫ぶ『一体、神はどこにおられるのだ』。その時ヴィーゼルは、心のなかで、ある声が男に答えているのを感じた『どこだって。ここにおられる、ここに、この絞首台に吊るされておられる』」。

・私たちの信じる神は「共に苦しまれる神」だ。イエスは二人の罪人と共に十字架につけられた時、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれた。この神が私たちの信じる神だ。

-マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。

・この神を信じる時、私たちは苦難から立ち上がる勇気をいただく。

-宗教改革者マルチィン・ルターは1517年ヴィテンベルグの城門に97箇条の公開質問状を貼り、堕落した当時のカトリックに対して宗教改革の旗を上げた。その結果、彼は破門され、命を狙われ、その圧力の前に意気消沈していた。ある時、ルターが部屋に入ったら、妻が喪服を着て彼を迎えた。ルターは尋ねる「一体誰が亡くなったのか」。妻は答える「あなたの神が亡くなりました。あなたは“主は生きておられる”事を忘れ、希望をなくしている。あなたの神は死んだのです」。妻の言葉によってルターは信仰の目が開かれ、「私の神は生きておられる」と確信をもって、再び戦いの場に出て行った。

 

3.訴えても身の潔白が証しされない時、私たちはどうするのか

 

・生命科学者の柳沢桂子さんは原因不明の病に30年間苦しめられた。病の苦しみよりも、原因不明であることによる人々の無理解に苦しめられたという。

-柳沢桂子“癒されて生きる”から「私は30年に近い歳月を原因のよくわからない病気とともに生きてきた。初めに現れたのは,めまい,吐き気,腹痛などの症状であったが,次第に四肢の麻痺,嚥下困難なども伴って,起きることもできなくなってきた。そこまで病気が進行しても,検査値に異常があらわれないために,病気とは認められなかった。すべて主観的な症状ばかりであるために,私の気のせいであるとか,何か不満があるために出る症状とされた。現在の社会では,医師が病名をつけないということは,その他の人々も病気と認めないことを意味する・・・自分ではどうすることもできない激しい症状があり,職も失っていくなかで,社会的に病気とは認められないということは、言葉に表せない苦しみであった」。

・「柳沢さんは一時自殺さえ考えたが、ある時、ボンヘッファーの言葉と出会った。『神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前に、神と共に、われわれは神なしに生きる』(ボンヘッファー「獄中書簡集」417頁)。不思議なことに、この言葉が彼女を深く慰め、支えたという。私には、「神の前に、神と共に、神なしに生きる」というこの言葉は、要するにイエスを指し示していると思われてならない。イエスは「神の前に」歩み、「神と共に」生きた。だが、最後は十字架につけられて、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と叫んで死んだ。神の子であるイエスが、神に見捨てられたと感じるほどの恥と苦しみと絶望を経験したのである。その時、彼は確かに『神なしに』生きていた。神の前に、神と共に生きたイエスが、神の不在を感じて苦しまねばならなかった! 聖書の神はこのような苦しみを知り給う。正にこのことが、絶望のどん底にいる人を慰めるのである」(村上伸説教集から)。

・財産を喪失し、子供を失い、自らも不治の病に追いやられたヨブが最後に見出した神は、「彼を贖う神」であった。それでも神は自分を肯定していることを知った時、彼は不条理の解決なしに、心の平安を得た。

-ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。

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