江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年10月22日祈祷会(詩篇23編、主こそわが羊飼い)

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1.苦難の中で主を見出した者の讃美

 

・詩篇23編は「主こそわが羊飼い」と讃美する詩篇である。古来多くの人に愛唱され、讃美歌となってきた(教団讃美歌354番「飼い主わが主よ」、新生讃美歌585番「救いのぬし主よ」)。

-詩篇23:1「賛歌。ダビデの詩。主は羊飼い、私には何も欠けることがない」。

・詩篇には神を牧者としてたたえる多くの詩がある。羊は愚かで弱く迷いやすいが、人間もそうだ。だから導き手がいなければ目的の地に行けないと歌う。

-詩篇78:52「神は御自分の民を羊のように導き出し、荒れ野で家畜の群れのように導かれた」。

・パレスチナの地は乾燥し、牧草と水に乏しい。羊は牧者の導きによって緑の草を得、また水辺に導かれる。牧者の導きがなければ羊たちは谷間に落ち込んで飢え、猛獣の餌食になる。その生活体験が詩の背景にある。

-詩篇23:2-3「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる」。

・迷い出た羊が落ち行く先は「死の陰の谷」だ。しかし主は迷い出た羊を探し出す牧者のように、私を「死の陰の谷」から救ってくださったと作者は告白する。牧者は鞭と杖を持ち、敵の攻撃から群れを守り、同時に群れにふさわしい訓練をされる。古代、王権の象徴とされた杖は牧者の杖に由来する。

-詩篇23:4「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」。

・マタイはイエスのガリラヤ宣教を、「死の陰の地に住む者たちに光が差し込んだ」と表現する。かつてアッシリアに滅ぼされ、その後多くの異邦人が住むガリラヤで、イエスは宣教を始められた。

-マタイ4:15-17「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。

・4節「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」、このインマヌエルの神こそ、旧約・新約を貫く聖書の信仰だ。

-イザヤ41:10「恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える」。

・5節から詩は転調し、守護者である主により頼む信仰が表明される。敵に追われて主の幕屋に逃げ込んだ者は、敵から保護され、香油を塗って祝福され、あふれるほどのぶどう酒を注がれる。

-詩篇23:5「私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」。

・主の幕屋にある平安を作者は高らかに歌い上げて、詩篇は閉じられる。

-詩篇23:6「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。

 

2.よき羊飼いに出会った者の幸い

 

・預言者たちは、指導者たちから見放され、放置される民を、「飼い主のいない羊の群れ」として、神が自ら保護してくださると預言してきた。牧者である為政者がその役割を果たさない時は、神自らが牧される。

-エゼキエル34:8-12「私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すように、私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れをすべての場所から救い出す」。

・マタイはイエスこそ、この「神の民の羊飼い」としての憐れみを体現される方であったと告白する。

-マタイ8:36「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

・またマタイは、羊が迷い出た時、羊飼いは群れを置いて、その一匹の羊を探しに行く。イエスはそのような羊飼いだと彼は理解した。

-マタイ18:12-13「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。

・イエスご自身も、自分は「良い羊飼い」であると言われた。教会の牧師として赴任する者は、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、「自分の都合ではなく、教会を第一に行動していこう」と決意する。

-ヨハネ10:11-13「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」。

・羊はおとなしく素直で従順であるが、同時に愚かで弱く迷いやすい。私たちも同じだ。人生は荒野であり、多くの欠乏と苦しみがあり、その中で私たちは牧者である神に出会い、その導きにより、命の糧を日々与えられ、命の水を日々賜る。自分が「愚かで弱く迷いやすい」存在であることを知る時、守りたもう神に感謝の讃美があふれる。

-詩篇25:6-11「主よ、思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若い時の罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めてください。主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて慈しみとまこと。主よ、あなたの御名のために、罪深い私をお赦しください」。

 

3.詩の背景にはイスラエルの民族体験がある

 

・古代イスラエルは牧羊の民であった。エジプトに来たヨセフの兄弟たちは、自分たちは羊飼いであったと告白し、飢饉のためにカナンで羊を飼うことが出来なくなったので、エジプトに来たと答える。。

-詩篇47:3 ファラオはヨセフの兄弟たちに言った。『お前たちの仕事は何か。』兄弟たちが、『あなたの僕である私どもは、先祖代々、羊飼いでございます』と答え、更に続けてファラオに言った。『私どもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。』」

・イスラエルの信仰の原点は「出エジプト」である。その体験をイスラエルの人びとは「自分たちは羊のように導き出された」と語る。

-詩篇77:21「あなたはモーセとアロンの手をとおして、羊の群れのように御自分の民を導かれました」。

・その民族の体験が嗣業の地に定住してからも、彼らの内にあった。その体験が「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という詩篇23編に凝縮されている。その彼らが約束の地に定住し、主の家(幕屋、神殿)に集まり、そこで神に拝礼する。その気持ちが23編6節に表現されている。

-詩篇23:6「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。

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