2019年5月16日祈祷会(サムエル記下16章、逃亡するダビデ)
1.逆境下の人間関係
・逃亡するダビデを、サウルの子メフィボシェトの従者ツィバが食物を持って迎える。ツィバは「主人メフィボシェトは今回の政変をサウル王家復興のために喜び、エルサレムに残った」と讒言し、怒ったダビデはツィバにメフィボシェトの領地を与える。ダビデは助命したヨナタンの子に今裏切られた。
−サムエル記下16:1-4「ダビデが山頂を少し下った時に、メフィボシェトの従者ツィバが、ダビデを迎えた。彼は二頭の鞍を置いたろばに、二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでいた・・・ツィバは王に『主人はエルサレムにとどまっています。イスラエルの家は今日、父の王座を私に返すと申していました』と答えた。王はツィバに『それなら、メフィボシェトに属する物はすべてお前のものにしてよろしい』と言った」。
・これが讒言であることはやがてわかる(19:25-30)。しかし、困窮の中に助けを求めるダビデはこの讒言を信じる。敗北のダビデに野心に満ちた人々が次々に襲いかかる。ダビデに追い討ちをかけるように、サウル一族のシムイが、ダビデに呪いの言葉を浴びせかける。
−サムエル記下16:5-8「ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った『出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ』」。
・ダビデは血をもってサウル家を倒したのではなく、不当な呪いだ。「お前が流血の罪を犯した」、ダビデはサウロ王の死には責任はない。しかし、彼はウリヤの血を流し、バテシバを我がものとした。「ダビデの手は血にまみれている」。ダビデは今この呪いを神の御手の働きによるものと受け止める。
−サムエル記下16:10「王は言った『ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、どうしてそんなことをするのかと誰が言えよう』」。
・羊飼いから王にまで登り詰めたダビデだが、自分の才覚によると思っていなかった。ひとりの人間として神の前に立つその姿に、苦悩がにじんでいる。他者に責任転嫁をせず、自分の罪を認める。サウル一族のベニヤミン族がユダ族の自分を憎むことを許し、彼を殺さなかった。
−サムエル記下16:11-12「ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った『私の身から出た子が私の命を狙っている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない』」。
・私たちも誤解や中傷で苦しめられる時がある。その時どうするか。その苦難を神からのものとして受け入れていく。不条理もまた私たちがそれを乗り越えるために与えられていると受け止める。「主が私の苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」という希望を持つ。
−哀歌3:30-31「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」。
2.神の御手の働き
・ダビデの側近フシャイはエルサレムに行き、アブサロムに取り入り、受入れられる。アブサロムの反乱を、主と民が選んだ故だと肯定したからだ。ダビデ方のフシャイがアブサロム宮廷に入ることによって、形勢が変わり始める。
―サムエル記下16:18-19「フシャイはアブサロムに答えた『いいえ。主とここにいる兵士とイスラエルの全員が選んだ方に私は従い、その方と共にとどまります・・・お父上にお仕えしたようにあなたにお仕えします』」。
・王権の交替に際して、アヒトフェルは王となったアブサロムに「父の側女たちのところに入る」ように勧める。王権を簒奪(さんだつ)した側では、前王の資産や権限をすべて引き継ぐのが当然だった。前王が実父であれ、その側女たちは国家が新しい体制に引き継がれる際の、象徴的、儀礼的な意味を帯びていた。前王の側女たちを継承するのは、王権を掌握した者の義務に等しい重みを持っており、王権を奪われた側の父は、まだ存命であっても既に死んだ存在だと宣言することになる。それを臣下たちに見せつけるため、アヒトフェルは敢えて提言した。王権の「正当なる」継承を誇示した行動なのである。
―サムエル記下16:21-22「アヒトフェルはアブサロムに言った『お父上の側女たちのところにお入りになるのがよいでしょう。お父上は王宮を守らせるため側女たちを残しておられます。あなたがあえてお父上の憎悪の的となられたと全イスラエルが聞けば、あなたについている者はすべて、奮い立つでしょう』。アブサロムのために屋上に天幕が張られ、全イスラエルの注目の中で、アブサロムは父の側女たちのところに入った』。
・それは同時にナタンの預言の成就となった。ナタンは姦淫の罪を犯したダビデに、あなたの妻も犯されると預言した。
―サムエル記下12:11-12「主はこう言われる『見よ、私はあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、私はこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う』」。
3.サムエル記下16章の黙想
・アブサロムは主の導きを求めず、軍隊の数と力に頼る。ダビデはひたすらに主の名を呼ぶ。この生き方の差が、二人の生死を分けていく。物事は「人が計画するが、成否を決められるのは神」である。
―イザヤ31:1-3「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない。しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし、御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家、悪を行う者に味方する者を攻められる。エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」。
・アブサロムの反乱はやがて収束していく。若さに任せて力で支配するアブサロムから人は離れて行き、神の前に静まるダビデに再び人望が集まる。戦いはダビデ軍の勝利に終わった。
−サムエル記下17:24-26「ダビデがマハナイムに着いたころ、アブサロムと彼に従うイスラエルの兵は皆、共にヨルダンを渡った。アブサロムはヨアブの代わりにアマサを軍の司令官に任命した・・・イスラエル軍は、アブサロムに従ってギレアドの地に陣を敷いた」。
−サムエル記下18:6-7「兵士たちはイスラエル軍と戦うために野に出て行った。戦いはエフライムの森で起こり、イスラエル軍はそこでダビデの家臣に敗れた。大敗北で、その日、二万人を失った」。
・人は信仰者の生き方を見て、そこに神の臨在を見る。劇作家井上ひさしは、15歳の時に入れられた「カトリック養護施設で働く修道士たちの生きざまを見て信仰に入った」と語る。
−井上ひさし「一年かかって500項目以上の公教要理を暗唱するようになり、毎朝6時からのミサにもきちんと出席して、洗礼を受けるようになった。しかし、それは、カトリックの教理をよく理解したからというのではない。私が信じたのは、はるか東方の異郷にやってきて、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒れ地を耕し、人糞をまき、手を汚し、爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国人の師父たちであり、母国の修道会本部からの修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちであった。別の言い方をすれば、私は天主の存在を信じる師父たちを信じたのであり、キリストを信じるぼろ服の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだ」(井上ひさし「道元の冒険」後書きから)。