江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年10月24日祈祷会(列王記上19章、バアルにひざまずかない信仰者を求めて)

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1.権力者に追われて逃げるエリヤ

 

・預言者エリヤはイスラエルに偶像礼拝を持ちこみ、民に偶像神バアルを拝ませようとするイスラエル王アハブ王とその妻イゼベルと対決し、勝利を勝ち取った。しかしバアル神の庇護者イゼベルが立ち、「エリヤを捕えてその首をはねよ」と命じると、途端に局面は変わり、エリヤはイゼベルに追われてユダの砂漠に逃げる。ここでのエリヤはカルメル山のエリヤではない。戦いに疲れた憔悴した男である。

-列王記上19:3-4「ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った『主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません』」。

・単身で450人のバアルの預言者と対決し、圧倒的な勝利をおさめた、あの力強い預言者はどこに行ったのか。熱狂的に「主こそ神です。主こそ神です」(18:39)と歓呼した民衆もイゼベルの処刑命令が出ると、一斉に沈黙してしまう。エリヤはイスラエルを逃れ、ユダ領ベエル・シェバまで逃れて来くる。その時、エリヤに御使いが現れ、食べ物を与え、主の山に行くように励ます。エリヤは荒野をホレブに向かった。

-列王記上19:8「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」。

・エリヤを襲ったのは自分の力の限界を知った無力感であろう。「あれほどの出来事があったのに、世の中は何も変わらず、逆に悪くなっている。自分のしたことは無意味だったのか」と彼は落ち込んでいる。主なる神は何故バアルの保護者であるイゼベルに国を支配する権限を与え続けられるのか、なぜ勝利を許した後でこの屈辱と敗北を与えられるのか、エリヤの信仰は揺らいでいた。そのエリヤはホレブで主に出会う。人は失意の中にある時には、状況の暗い面しか見えず、不満だけを述べる。

-列王記上19:10「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。私一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています」。

・ホレブに着いたエリヤは洞窟に入り、一夜を過ごす。主はエリヤに、「洞窟を出て私の前に立て」と言われるがエリヤは従わない。エリヤが隠れ場を出たのは、主の静かなささやき声を聴いた時だった。「洞窟を出る」、人は苦しみ悩みの中に置かれた時、洞窟の中へあるいは部屋の中に閉じこもってしまう。外のものに目を向けることが出来ず、自分の周囲の暗闇ばかりを見つめてしまい、その結果苦しみが彼を押し倒す。解決の道はただ一つ、洞窟を出て主の前に立つことである。

-列王記上19:11-13「主は『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った」。

 

2.疲れた者への励まし~新しい召命

 

・「風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかった」、神は超自然的な出来事を通してではなく、人を通してその御旨を行われる。主はエリヤに命じられる「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ・・・ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。アベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」。この三人がエリヤによって始められた偶像礼拝との戦いを勝利させるであろうと示された。人は一人で戦うのではない。やり残した使命は次の人が継承して行く。

-列王記上19:15-18「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、私はイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。

・人は強くあり続けることは出来ない。モーセもエレミヤも弱音を吐いたことを私たちは知るべきである。

-民数記11:11-15「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか・・・ 私一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。私には重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ殺してください」。

-エレミヤ15:10「ああ、私は災いだ。わが母よ、どうして私を産んだのか。国中で私は争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。・・・だれもが私を呪う」。

・しかし、彼らも主の励ましによって立ち直り、その職分を尽くした。人は召命を受けている時、為すべきことがある間は、倒されることはない。

-エレミヤ15:19「あなたが帰ろうとするなら、私のもとに帰らせ私の前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを、私の口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」。

 

3.列王記上19章の黙想(バアルにひざまずかない信仰者を求めて)

 

・主はエリヤに「バアルにひざまずかない7千人を残す」と言われた。どのような逆境の中にあろうとも、あなたは一人ではない、あなたの戦いは孤立無援ではないという励ましだ。この言葉はエリヤに続く多くの伝道者に慰めを与えてきた。パウロもその一人である。

-ローマ11:3-5「『主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らは私の命をねらっています』。しかし、神は彼に何と告げているか『私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」

・パウロはユダヤ人であり、同胞のユダヤ人がイエスを救い主として受け入れることを願っていた。しかし、ユダヤ人はイエスを受け入れずにこれを殺し、イエスの宣教者となったパウロを裏切り者としてその命を狙う。ユダヤ人こそ神の民でありキリストはそのユダヤ人の中から起こされた、それなのに何故ユダヤ人はキリストを拒否するのか。その時、パウロは彼の宣教により悔い改めた少数のユダヤ人キリスト者のことを思い起こす。多くのユダヤ人はキリストを拒否したが、神は少数の者をキリストの民としてお与えになった。神はこの少数者を用いて全ユダヤ人の救いをしようとしておられる。バアルにひざまずかない人々が残されていた、このことに気付いたパウロは元気を取り戻し、また宣教の業に出かけて行った。

・日本においても同じである。ほとんどの日本人は「自分が神によって生かされ、養われている」とは思っていない。自分たちを養うものは給料をくれる会社や役所であり、自分たちの働きで生計を立てていると思っており、神がいなくとも特に困らないと思っている。困難に直面した時は、神社やお寺にお参りするが、災いが過ぎれば忘れる。収穫が豊かであるようにバアルを拝んでいた人々と同じだ。教会に来て神をあがめても病気は治らないばかりか、その病気を神が与えた試練として感謝して受け止めよと求められる。そんなところには行かない、多くの人はそう思い、教会に来ないし、来ても定着しない。それにもかかわらず、「バアルにひざまずかない7千人」が残されている。教会はこの人々を捜すために伝道する。

-使徒言行録18:8-11「会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』。パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」。

・私たちの教会には40名の会員がいる。たった40名と思えば少数だが、40名の人々が毎週礼拝に集められていることは、私たちを勇気付ける。この40人が地の塩として活動すればそこに一つの動きが出る。塩は少量であっても意味を持つ。主に従う人はいつも少数であり、救いはこの少数者を通して与えられる。ここに40人の方がおられる、40人が少数であることを嘆くのではなく、40人もの人がこの困難な時代にこの教会に集められたことを感謝しよう。ここに宝がある。ここにバアルにひざまずかない人がいるのだ。

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