江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年4月12日祈祷会(士師記3章、罪と砕き)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.士師オトニエル

・民は約束の地に入る前に、「主に従います」との契約を結んだ(シケム契約)。その契約に基づいて彼らは嗣業の地に入った。
−ヨシュア記24:24-28「民はヨシュアに答えた『私たちの神、主に私たちは仕え、その声に聞き従います』。その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法とを定めた・・・ヨシュアはこうして、民をそれぞれの嗣業の土地に送り出した」。
・しかし、最初の世代が死に、次の世代になると、民は約束を忘れ、土地の神バアルを拝み始める。
−士師記2:10-11「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕える者となった」。
・民は土地の部族と婚姻し、彼らの神々を受け入れた。偶像崇拝は先住民との婚姻を通してイスラエルの中に入ってきた。イスラエルの民にとって、戦って町を手に入れるよりは、土地の者たちと平和的に同化することが得策と思われたのであろう。しかしその結果は、相手の神々を受け入れ、拝むことになり、いつしか自分たちの神を忘れ、信仰の遺産を捨て去ることになった。ユダヤ人や中国人は外国にあっても同化せず、民族の自立を守る。他方、日本人は同化する。宗教(信仰の遺産)がない故であろうか。日本において信仰の継承が難しい理由も、信仰の遺産がないことにあるような気がする。
−士師記3:5-6「イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた」。
・約束の地を与えられた感謝を忘れた民に、砕きとして、異民族の侵略が与えられる。士師記は歴史における異民族の侵略を、「主の鞭」としてとらえる。
−士師記3:7-8「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた。主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの人々は八年間、クシャン・リシュアタイムに仕えなければならなかった」。
・アラム、死海南部のエドム族の侵攻と思われる。エドムの南方からの侵略に対して、その土地を嗣業とするユダ族から士師オトニエルが立てられ、国を救う。
−士師記3:9「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主はイスラエルの人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである」。
・オトニエルが最初に行ったのはイスラエルを裁くことであった。士師は外敵から民族を守る軍事的救出者であるが、同時に「裁き司」でもあった。外部の敵の侵攻は内部の腐敗から来るからだ。
−士師記3:10「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた。彼が戦いに出ると、主は、アラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡して下さった」。
・私たちに与えられる苦難の真の原因は自分にある。外部の問題は解決されても、苦難は次々に私たちを襲う。個々の問題を解決しても、真の解決にはならない。私たち自身が変えられた時、問題は解決する。
−イザヤ31:1「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない」。

2.士師エフド

・オトニエルの死後、民はまた堕落し、新たな制裁が与えられる。ヨルダン川右岸を基盤とするモアブ族がヨルダン川を越えて侵攻し、エリコ・ギルガル地方が占領される。
−士師記3:12-14「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った・・・主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した」。
・侵された地はベニヤミン族の嗣業の地であった。主はベニヤミン族から「エフド」を立て、イスラエルを救われる。
−士師記3:15「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである」。
・エフドは策略を用いてモアブ王を暗殺し、その後、イスラエル連合軍はモアブ軍を領地から追放する。
−士師記3:21-29「エフドは左手で右腰の剣を抜き、王の腹を刺した・・・彼らが手間取っている間にエフドは抜け出し、偶像のあったところを過ぎてセイラに逃れた。到着すると、彼はエフライムの山地に角笛を吹き鳴らした。イスラエルの人々は彼と一緒になり、彼を先頭に山を下った・・・彼らは・・・モアブに向かうヨルダンの渡しを手中に収めた・・・彼らはこの時、約一万のモアブ人を打ち殺した」。
・神は必要な時に必要な方法で民を救われる。それは時には暴君の暗殺という形にもなる。その後、国は平穏であったが、エフドの死後、またもや堕落が始まる。
−士師記4:1「エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はハツォルで王位についていたカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された」。

3.人生におけるとげの意味を再び考える

・人の本質は悪だ。人は自らの力で神の戒めを守ることは出来ない。人は、黒人がその肌の色を変えることが出来ないように、その悪を捨てることが出来ない。
−エレミヤ13:23-24「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも、正しい者となりえよう。私はお前たちを散らす、荒れ野の風に吹き飛ばされるもみ殻のように」。
・人が神に従い続けるためには、「懲らしめと試みと戦い」が繰り返し、与えられる必要がある。旧約はそれを、「主の鞭」、主から与えられた「とげ」と表現する。
−ヨシュア記23:13 「あなたたちの神、主がもはや、これらの国民を追い払われないことを覚悟しなさい。彼らはあなたたちの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭、目に突き刺さるとげとなり、あなたたちは、あなたたちの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる」。
・パウロも与えられる苦難を「主から与えられたとげ」と表現する。パウロは重大な病を負っていた。そのとげこそが、人をキリスト者に保ち続けると彼は語る。
−第二コリント12:7-10「私が高慢にならないようにと、私の肉体にはとげが与えられた・・・私は彼が私から離れ去るようにと、三度主に懇願した。すると主(イエス・キリスト)は私に言われたのである『私の恵みはあなたにとって十分である。何故ならば、力は弱さにおいて完全になるのだからである』。そこで私は、むしろ大いに喜んで自分のもろもろの弱さを誇ることにしよう。それだから私は、もろもろの弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、そして行き詰まりとを、キリストのために喜ぶ。何故ならば、私が弱い時、その時こそ、私は力あるものだからである」(青野太潮訳)。

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