2018年11月8日祈祷会(サムエル記上17章、信仰が不信仰を倒す)
1.神を侮る男ゴリアト
・ペリシテ軍は再びイスラエルに攻め上り、イスラエル軍は彼らと対峙した。
−サムエル記上17:1-3「ペリシテ人は戦いに備えて軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集結し、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を張った。一方、サウルとイスラエルの兵も集結し、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ軍との戦いに備えた。ペリシテ軍は一方の山に、イスラエル軍は谷を挟んでもう一方の山に陣取った」。
・そのペリシテ軍から一人の大男が進み出、イスラエル軍に一騎打ちを申し出た。彼の背丈は身長6キュビト半(2.7メートル)、よろいは5000シェケル(57キログラム)もあり、青銅の投げやりを持っていた。イスラエルの兵士たちは、あまりの巨人である彼を恐れて、たじろいだ。
−サムエル記上17:8-11「ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった『どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。私はペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、私の方へ下りて来させよ・・・今日、私はイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ』。サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた」。
・勇猛な王サウルも、王子ヨナタンもこのゴリアトに挑戦できず、彼は40日にもわたってイスラエル軍を愚弄する。神の臨在と神の霊を失っていたイスラエル軍は戦う士気を失っていた。そこに兄たちに食糧を届けに来たダビデが来て、イスラエルの神を愚弄する男に腹を立てる。
−サムエル記上17:24-26「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた。イスラエル兵は言った。『あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜るそうだ。しかも、王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ』。ダビデは周りに立っている兵に言った。『あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか』」。
・ダビデの兄たちもそこにいたが、巨人と戦う勇気はなかった。確かに主の選びはその通りであった。
−サムエル記上16:6-10「彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』。エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った『この者をも主はお選びにならない』。エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った『この者をも主はお選びにならない』。エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った『主はこれらの者をお選びにならない』」。
・ダビデの言葉こそ戦意をなくしているイスラエルに必要なものだった。彼はサウルの前に出て言う「獅子の手、熊の手から守って下さった主はペリシテ人の手からも守って下さいます」。
−サムエル記上17:34-37「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。その時には、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。私は獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから・・・獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません」。
2.剣も槍も必要としないダビデ
・ダビデは単身ゴリアトに向かう。彼は槍も剣も持たず、ただ石投げの道具だけを持っていく。
−サムエル記上17:45-47「ダビデはこのペリシテ人に言った『お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前を私の手に引き渡される。私は、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される』」。
・対戦はあっという間に終わった。ダビデの投げた石がゴリアテの頭部を貫通し、ゴリアテは倒れた。
−サムエル記上17:48-50「ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった」。
・ダビデはこの戦いに自分が負けるなどとは一切考えていない。これは「主の戦いであって、主が戦われる」と信じていたからである。「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、私を守ってくださるにちがいありません」と彼は断言する。相手を打ち倒すためには槍も剣も必要としない、ただ神が共にいませば、それが出来るという信仰がゴリアテを倒した。
−サムエル記上2:9-10「主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる。」
・重装備の敵に重装備で立ち向かったサウルは何も出来なかった。敵の戦力が自分を上まわっていることを見たからだ。しかし、信仰者は主にゆだねることが出来る。だから彼は牢獄にいても主を讃美できる。
−ピリピ1:13-14「私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・ダビデはゴリアトを倒し、サウルの武将として迎え入れられる。王になるための道が開けていった。
−サムエル記上17:51-52「ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。」。
3.サムエル記上17章の黙想(福井誠注解から)
・このエピソードは、日本で言えば金太郎や桃太郎と同じように、イスラエルの子どもに深く印象に残るものであったことだろう。イスラエルの子どもたちは、この物語を通じて、大切な心的態度を養われていく。金太郎や桃太郎の話を聞きながら勇敢な子供に育つことを期待されるのと同じである。しかしこの物語には日本人の昔話にはなく、日本人の家庭では決して教えられない要素がある。「イスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ」(45節)という、万軍の主への信頼と、「主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ」(47節)という神による勝利という考え方である。自分が強くなって、その力で相手を打ち負かすのではない。むしろ、私たちには力はないが、神の加勢によって勝つという考え方である。
・圧倒的に勝利に見込みのない状況であれ、主が共におられるのであれば、普段使い慣れた石投げと一つの石、ありのままの力で勝つことができる。かつて神はギデオンに「あなたのその力で行け」(6:14)と命じられたが、私たちに勝ち目のない戦を強いられることがあっても、そこで落胆することがあってはならない。主の御心ならば、主が道を開いてくださるからである。確かに、完璧に練られ十分な勝算を見込んだ計画も水の泡と化すことはよくあることだ。最も力有る者もその力を発揮できないことがある。勝利を与えてくださるのは主であることを忘れてはならないのである。
・このダビデの信仰は、「弱いときにこそ強い」と告白したパウロの信仰に通じるものがある。パウロは深刻な病を持っていたらしい。癲癇、あるいは眼病と言われている。それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていた。パウロはこの病を取り去ってくれるように、繰り返し主に祈った。与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉だった。肉のとげがある故に自分の弱さを知る。弱さを知るから主を求める。病が癒されないこともまた恵みであることをパウロは知らされた。
−第二コリント12:9-10「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」。