1.ヨルダン川西側の分配とカレブの申し出
・ヨルダン川東岸の配分に続いて、ヨルダン川西岸の土地の配分が議論される。
−ヨシュア記14:1-2「イスラエルの人々が、カナンの土地で嗣業の土地として受け継いだのは、次のとおりである。これは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアが、イスラエルの人々の諸部族の家長と共に、彼らに嗣業の土地として与えたものである。・・・くじで九つ半の部族に嗣業の土地を割り当てた」。
・その時、ユダ族のカレブが、自分にはヘブロンの地を与えてくれるように求めてきた。
−ヨシュア記14:6-13「カレブがこう言った『主がカデシュ・バルネアで私とあなたのことについて神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです・・・モーセは誓って、あなたが私の神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になると約束しました・・・主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおり私を生き永らえさせてくださいました・・・どうか主があの時約束してくださったこの山地を私にください』・・・ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の土地として彼に与えた」。
・ヨシュアはカレブに、その要求に従って、ヘブロンの地を与えた。それは、カレブが「主に従い通した」故である。カレブは45年前に約束の地を偵察した十二人の斥候の一人であり、他の者が恐れた時も従い通した。
−民数記14:6-10「土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた『我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう・・・あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない』。しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った」。
・この反逆により、イスラエルは再び荒野に押し戻され、第一世代は死に絶える。その中で、約束の地に入ることが出来るとされたのは、カレブとヨシュアだけだった。カレブは少数者の主張を貫き、石で殺されそうになっても、自分の見解を撤回しなかった。その信仰を神は喜ばれたと民数記は記す。
−民数記14:22-24「私の栄光、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者はだれ一人として、私が彼らの先祖に誓った土地を見ることはない・・・しかし、私の僕カレブは、別の思いを持ち、私に従い通したので、私は彼が見て来た土地に連れて行く。彼の子孫はそれを継ぐ」。
2.カレブの信仰
・カレブは85歳になって、体力も無くなっている。それでも、為すべき事を為したいと願っている。
−ヨシュア記14:10-12「今日私は八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時約束してくださったこの山地を私にください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主が私と共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます」。
・ヨシュアが「残っている土地を占領せよ」と命じられた時も、80歳を超えていた。年をとっても、やるべきことは残っている。その信仰こそ老後を生きる力となる。
−ヨシュア記13:1「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となった時、主は彼にこう言われた『あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている』」。
3.年齢と信仰
・モーセは120歳まで民の指導をした(申命記34:7)。ヨシュアは110歳まで生きた(ヨシュア記24:29)。年齢を重ねると身体能力は落ちるが、経験能力は、体が健康であれば増す。キリスト新聞社調べ(2015年)によれば、牧師の年齢構成は50代18%、60代24%、70代29%、80代18%となっている。社会が高齢化に向かう時、高齢牧師もまた役割を増すことのしるしといえる。
*日本基督教団調査によれば、信徒の年齢構成は60代22%、70代41%であり、60代以上が63%を占める。これを「教会の限界集落化」と見ることも可能であるが、反面、世の仕事から解放され、時間が自由になった高齢者が多数を占めることが教会の活性化につながる。神学校で学ぶ人も60代が増えている。
・榎本保郎は「旧約聖書一日一章」の中で述べる「しかし、八十五歳はやはり八十五歳である。どんなに意識は強固であっても、肉体は四十年前よりは衰えていたにちがいない。だからもし、彼が自分の能力だけでこのことを語っているとするならば、これは年寄りのやせがまんである。しかし、彼がかく言い切っている根拠は自分にあったのではなかった。『主が私と共におられて、私はついには、主が言われたように彼らを追い払うことができるでしょう』と言明しているように、彼は神が今も共にいますゆえに、何ものをも恐れなかったのである。この神のみ前には自分の老いなどは問題ではなかったのである。百プラス無限大も、一プラス無限大もその結果は同じである。ここに神を信じる者の自由がある」。
−第二コリント4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。
・先の者は後になり、後の者は先になる。何歳になっても遅すぎることはない。ウルマン「青春」はそれを教える。
−サミュエル・ウルマン「青春」「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、燃える情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、懐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ、あたかも長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をもあくたに帰せしめてしまう・・・人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老いる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて、神の憐れみを乞う他はなくなる。」