1.アイ攻略の失敗
・エリコの攻略は成功し、イスラエルは勢いのままに、隣のアイの攻略に向かう。勝利におごったイスラエルはアイ攻略には、軍の一部しか振り向けない。全力で当たる必要はないと判断したからだ。
−ヨシュア記7:2-3「ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、『上って行って、あの土地を探れ』と命じた。アイはベテルの東、ベト・アベンの近くにあった。彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って来て言った。『アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません』」。
・ところが簡単に勝てると思ったアイ攻略は無惨な失敗に終わる。
−ヨシュア記7:4-5「民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。アイの兵士は城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した」。
・「約束が違うではないですか」、敗れたヨシュアは神に泣き言を言う。
−ヨシュア記7:7-9「主よ、なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。私たちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか・・・主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、私は何と言えばいいのでしょう。カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、私たちを攻め囲んで皆殺しにし、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」。
・ヨルダン川の奇跡を見、エリコの劇的な陥落を見たのに、一度負けると神に対する信仰は揺るいでしまう。エジプトから助け出された民も、エジプト軍が追跡してくるのを見た時、同じように泣き言を言った。
−出エジプト記14:10-11「イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は恐れて主に向かって叫び、またモーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか』」。
・失敗には原因がある、それを知れと神は言われる。
−ヨシュア記7:10-13「立ちなさい。なぜ、そのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯し、私が命じた契約を破り、滅ぼし尽くして捧げるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、私はもはやあなたたちと共にいない。立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである。」
2.アカンの罪
・ここにあるのは、宗教的な「聖絶」(ヘーレム)の命令である。「ヘーレム=燃え尽す捧げもの」としてエリコを捧げよと命じられている。
―ヨシュア記6:17-19「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ・・・あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」
・「しかし命令は実行されなかった。命令に背いた者を滅ぼせ」と主は重ねて語られた。
−ヨシュア記7:15「滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいて愚かなことをしたからである。」
・くじを引いたところ、アカンの罪が明らかになる。彼は金や銀の戦利品に目がくらみ、それを主に奉げる事をせず、自分のものにしたことがわかった。
−ヨシュア記7:20-21「アカンはヨシュアに答えた『私は、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。私がした事はこうです。分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、私の天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります』」。
・ヨシュアはアカンの罪を確認し、アカンとその家族を引き出し、石で撃ち殺すように命じた。
−ヨシュア記7:24-25「ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、こう宣言した。『お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)』。全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した」。
3.この出来事を私たちはどう理解するのか
・「聖絶=ハ・ヘーレム」は、新共同訳では「滅ぼし尽くすもの」と訳されている。「聖絶する」ことは神にすべて捧げるという宗教的行為であり、約束の地を占領し、聖絶することによって、それが神のものとして捧げられ、その後で、その地が神からの賜物として与えられる。従って、聖絶すべきものから盗んで自分の所有とすることは盗みの罪になる。アカンが処罰されることは納得がいくが、アカンの罪により家族のものも殺されたことは、私たちには納得できない。しかし旧約時代には罪は伝染すると考えられていたこと知るべきである。新約のパウロも教会内から罪を取り除くために、断固たる処置を求めた。神の恵みは裁きと共にある。恵みは安価なものではない。
−?コリ5:6-7「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」。
・悪は取り除かなければならない。罪を放置したままで祈りは聞かれない。預言者たちは繰り返し語った。
−イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」
・罪は罪あるままに赦されるのではなく、贖われなければいけない。しかしそのために家族にまでその影響を及ぼすべきではないという考えもまた、旧約時代が進むと出てくる。時代の変化とともに戒めの解釈も進化している。(ヨシュア記:前10世紀ごろ、エゼキエル書:前5世紀ごろ)
−エゼキエル18:1-17「主の言葉が私に臨んだ『お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。私は生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も、同様に私のものである。罪を犯した者、その人が死ぬ・・・
(その子が)貧しい者の抑圧から手を引き、天引きの利息や高利を取らず、私の裁きを行い、私の掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。」