1.契約法典(20:22−26)
・出エジプト記20−23章は契約法典と呼ばれ、基本戒めである十戒の詳細としての法を定めたものである。パレスチナに定着したイスラエルが、当地で行われていた慣習や法等を基礎に、自分たちの信仰でそれを修正していったものとされている。基本はあくまでの神との契約である。
-出エジプト記24:3-8「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え『私たちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き・・・焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『私たちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」
・最初の条項は偶像礼拝の禁止とあるべき礼拝についての規定である。礼拝の中心は犠牲を捧げることである。またいかなる偶像も否定される。
―出エジプト記20:23−24「あなたたちは私について、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。あなたは、私のために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。私の名の唱えられるすべての場所において、私はあなたに臨み、あなたを祝福する。」
・全体を貫く姿勢は弱者や貧者に対する神の介入である。彼らに対する不正や抑圧は、神が許されないという姿勢が貫かれている。
-出エジプト記22:20-23「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」
2.隷属と自由(21:1-11)
・イスラエルは奴隷制度をカナンから受け取り、採用したが、大幅に制度を変えている。男の奴隷は7年目には解放せよと定められている。しかも解放する時には、7年間の働きに見合うものを与えよと命令されている。これは奴隷と言うよりも年季奉公の雇い人に対する扱いだ。近隣諸国に比べれば非常に寛大な奴隷制である。
-出エジプト記21:1-6「以下は、あなたが彼らに示すべき法である。あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる・・・もし、その奴隷が、『私は主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません』と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。」
・女の奴隷は男とは異なる。女奴隷=アーマーははしための意味であり、側女ないし妻として遇されている。それは主人が勝手に出来るものではなく、そこにおいて女奴隷の人権が認められている。
―出エジプト記21:7-11「人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去る時と同じように去ることはできない。もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない・・・もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。」
・何故、このような寛大な規定が生まれたのか。それはイスラエルもエジプトで奴隷として苦しめられたから、奴隷たちを苦しめるなという主の命令に従ったからだ。
―レビ記25:39-42「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人か滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ・・・エジプトの国から私が導き出した者は皆、私の奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。」
3.死刑に処せられる罪(21:12-17)
・殺人、両親への肉体的また精神的暴力、誘拐は死罪になると法は定める。その一方で誤って人を殺したものは安全に避難することが出来ると定める(逃れの町の規定)。
―出エジプト記21:12-14「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、私はあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼を私の祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。」
・親を殺した者、人を誘惑する者は重い刑に処せられる。
-出エジプト記21:15-17「自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」
4.傷害に対する罪と刑(21:18-32)
・傷害についても細かい規定が定められる。その内容は今日の損害賠償法のようである。
-出エジプト記21:18-19「人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。」
・奴隷を打って殺した場合には罰せられ、他人の奴隷を打ってけがをさせた場合も賠償義務が課せられる。
-出エジプト記21:20-22「人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。」
・傷害についての基本は同害報復法(目には目を)である。
―出エジプト記21:23-25「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」
・自然のままであれば、力ある者は無制限の報復を行う。同害報復はこれを抑制するための人間の知恵だ。
―創世記4:24 「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」
・しかしイスラエル人はこの同害報復を乗り越えていく。報復は主の業であり、自分でするなと命じる。
―申命記32:35「私が報復し、報いをする、彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。」
・イエスは更に先に進むように私たちに教えられた。
―マタイ5:38-39「あなたがたも聞いている通り『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい。」
・イエスの積極性の先にあるのは、黄金律と呼ばれる教えだ。これまで多くの賢人が語ってきた教え「あなたにしてもらいたくないことを、他の人にするな」を、イエスは初めて肯定形で語り直された。悪の禁止ではなく、善の勧奨への転換である。マタイではこの教えが山上の説教のまとめとして置かれている。
-マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
5.財産侵害に対する損害賠償(21:33-36)
・財産侵害に関する賠償義務も細かく規定される。
-出エジプト記21:33-34「人が水溜めをあけたままにしておくか、水溜めを掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、その水溜めの所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。」
・様々な事例が明文化されている。4千年も前にこのような法が制定されていたことは驚きである。
-出エジプト記21:35-36「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。」