江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年6月29日祈祷会(民数記19章、死の汚れからの清め)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.清めの水による清め

・コラの反逆の結果、多くの人が死に、その死体に触れた人たちを清める必要があった。そこで、主はアロンに命じて赤毛の雌牛を焼き、その灰で「清めの水」を作れと命じられた。
−民数記19:2-9「イスラエルの人々に告げて、まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。そして、彼の目の前でその雌牛を焼く。皮も肉も血も胃の中身も共に焼かねばならない・・・身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される」。
・後代のラビたちは、これを旧約聖書の中で最も「謎に満ちた儀式」とみなしたという。私たちもこの儀式の意味はよくわからない。ただ古代人が、「死んだ肉体は汚れの起源だ」と考えたことは理解できる。民数記17章では、神から与えられた罰(疫病)のために死んだ者は一万人を超えたという。疫病による死者を放置することは、感染の危険を拡大し、早期の葬りと清めが求められたのであろう。
・本章に述べられる清めの儀式は,聖所の祭壇上において動物をほふる一般のいけにえ奉献とは異なり,「汚れ」を除くために〈宿営の外〉で〈赤い雌牛〉を用いて行われる特別な儀式である。ヘブル書の記者がイエスの十字架の血を描く時、彼はこの旧約の規程を比喩的に解釈している。
−ヘブル9:13-14「もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身を傷のないものとして神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」。
・牛の屠殺は「宿営の外」で行われた。穢れを宿営に持ち込まないためであろう。へブル書も汚れを清めるための十字架死は「宿営の外」で行われたとして、旧約と新約の一体性を強調する。
−ヘブル13:11-12「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。

2.血の清め、贖罪をどう考えるか

・血で清める、贖いの概念は明らかに旧約からくる。旧約の伝統の中に生まれて来たからこそ、使徒たちはイエスの十字架死を贖いの死=贖罪として理解した。
-レビ記17:11「生き物の命は血の中にあるからである。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。
・キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」だ。神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこうという信仰だ。この贖罪愛が私たちをキリスト者にする。しかし贖罪をどう理解するかは、実は難しい問題だ。現代の聖書学は「イエスは自らの死の必然性、その意義、結果を語らなかった。しかし弟子たちはイエスの死後に、イエスの死の必然性と意義を語り始め、これが贖罪論、救済論、和解論の成立をもたらした」(橋本滋男「多元化社会における神学と教会」)と考える。
・歴史のイエスは、社会の中で周辺に追いやられていた徴税人や娼婦、病人等の救済のために働かれ、その結果支配階層であるユダヤ教当局者(祭司、律法学者、ファリサイ派)と激しく対立され、ローマ当局からも治安を乱す危険人物とみなされ、殺された。イエスご自身は生きて神の国の到来を告知され、自分の死によって救済が成るとはお考えにならなかったのは、その通りだと思える。だからゲッセマネでは「この杯を私から取り除いてください」と祈られ(マルコ14:36)、十字架上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた(同15:34)。イエスは神の見捨ての中で死んで行かれた。しかし父なる神はイエスを見捨てられなかった。神はイエスを死から蘇らせ、復活のイエスに出会った弟子たちは、イエスを神の子、キリストとして拝し、イエスの死と復活を通して自分たちの罪が赦されたと旧約聖書の預言を通して理解し(イザヤ53:11「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。)、この理解を私たちも継承している。
・西南学院神学部・松見俊は語る「イエスはただ贖罪のために生まれてきた(死ぬために生まれてきた)というようなイエス・キリストへの信従、貧しい者・社会的に周辺化された人たちとの共感共苦という倫理性を欠いた贖罪信仰は、『安価な恵み』である」。では贖罪愛は否定すべきものか、そうではない。「神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性、それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストが命がけで私たちを愛して下さり、私たちの『ために』死んで下さったということが契機・動機づけにならないと、イエス・キリストに従い、他者と『共に』生きる倫理的行為は成立しない」。(「犠牲のシステムとキリスト教贖罪論」、西南学院神学論集、2013/3)。キリストの贖罪死も知性で受け入れることは難しいが、その贖罪愛に生かされてきた人々の歴史を知るゆえに受け入れる。

3.体の清めから心の清めに

・死体に触れた者は7日の間汚れる。その汚れは清めの水によって清められる。
−民数記19:11-13「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである」。
・人が天幕の中において死んだ時も穢れが生じ、人骨や墓に触れた者も汚れるとされた。
-民数記19:14-16「人が天幕の中で死んだ時の教えは次のとおりである。そのとき天幕に入った者、あるいはその中にいた者はすべて、七日の間汚れる。また、蓋をしていなかった、開いた容器もすべて汚れる。野外で剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる」。
・その場合、保存しておいた雌牛の灰の一部と水をもって清めよと命じられる。
-民数記19:17-18「それらの汚れたもののためには、罪の清めのために焼いた雌牛の灰の一部を取って容器に入れ、それに新鮮な水を加える。身の清い人がヒソプを取ってその水に浸し、天幕とすべての容器およびそこにいた人々に振りかける。更に、人骨、殺された者、死体あるいは墓に触れた者に振りかける」。
・旧約においては身体的汚れを祭儀によって清める。しかし、人々は次第にこのような儀式では洗い清められない、心の汚れがあることを知るようになる。
−イザヤ1:15-17「お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いを私の目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。
・心の内の汚れを洗い清めることこそ、本当の清めであることを旧約の人たちも知るようになった。詩編51編はダビデが罪を犯した時に悔い改めた詩編として伝承されている。
−詩篇51:4-9「私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています・・・ヒソプの枝で私の罪を払ってください。私が清くなるように。私を洗ってください。雪よりも白くなるように」。
・同時に、心の汚れを洗い清めるためには、人の力だけではどうしようも無いことにも気づいた。人は根本から変わらなければ、清められない存在なのだ。
−エゼキエル36:25-26「私が清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる。私はお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。
・イエスもまた、本当の汚れは外からではなく、心の中から来ることを知っておられた。
−マルコ7:20-23「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
・その汚れを清めるために、イエスは十字架につかれた。この十字架による清めこそ、本当の清めである。
-第一ヨハネ1:7「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」。

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